信夫山と伊達氏②:「青葉閣」
2007年 11月 28日
自分としては、信夫山の散策は常に自由な気分でやっていたつもりだったが、この道を通っていなかった。急な坂道だが、参道の趣が残っていて、歩いていて気分がいい。
暫く登ると、薬王寺の門が見えて来る。門から寺までは石段になっている。そこを登って寺に立ち寄る。
案内板によると、この寺は、古くは天喜年間に兵火に遭い、応永年間には伊達持宗掛田定勝がこの地に青葉閣を構えて関東の軍と対峙し、慶長5年10月6日の松川合戦に上杉勢伊達勢の兵火に罹り衰亡したとある。
このうち、松川の合戦については先日【信夫山と伊達氏:「松川の合戦」】として書いた。
「応永年間には伊達持宗掛田定勝がこの地に青葉閣を構えて」という部分については、【福島城②「伊達氏とかかわって」】といことで、ここから福島城の伊達持宗に掛田定勝が味方したことについて触れたこととのかかわりだ。
更に薬師堂のところの案内板では、「応永20年(1413)掛田定勝が大仏城(のちの福島城)に籠った伊達持宗と呼応て関東管領派遣の大軍を相手に戦った青葉閣は、このあたりに設けられたともいわれている。」としている。
薬王山辺りを散策する。山頂の展望台からは、御山裏がよく見える。ここから参道に戻るときに鐘を撞く。余韻の長い鐘で、その響きの間、そこに留まって休む。
薬王寺案内板説明内容
天台宗
青葉山信夫院薬王寺
福島市御山字西坂八番地
寺伝に云う 天安元年(857)の春 慈覚大師奥州巡錫の折 この地に至り香木を得て薬師尊像一躰を刻み一宇を開いて法弟大円和尚を留めたるが当山の開創なり 古くは天喜年間兵火に遭い また応永年間には伊達持宗掛田定勝この地に青葉閣を構えて関東の軍と待す 慶長5年10月6日の松川合戦に上杉勢伊達勢の兵火に罹り衰亡す 時経って寛永年間46世静伝和尚小寺を中興し 49世照伝和尚薬師堂を再興す 貞享3年堀田下総守正仲福島城主となり城の鬼門の鎮めとして帰依し復興の途に就く 元禄15年板倉甲斐守重寛福島城主となってより福島藩1社4寺の1として遇され御山3山別当職に任ず
薬師堂案内板説明内容
〈神社仏閣〉薬師堂
薬王寺が管掌する「峯の薬師」で、青葉山中嶺坊また信夫院と称した薬王寺が、この薬師堂から始まったといわれる由緒深いお堂である。信夫山は別に大羽山また青羽山ともいい、応永20年(1413)掛田定勝が大仏城(のちの福島城)に籠った伊達持宗と呼応て関東管領派遣の大軍を相手に戦った青葉閣は、このあたりに設けられたともいわれている。
薬師如来は、衆生の病苦を救うことを本願とする仏で、古来から尊信されてきた。このお堂にも、雑器に穴をあけたものなどが奉掛されているが、耳病の治癒を念じてあげたものである。なお、裏手には寛永の五輪塔や、百庚申の小塔が立ち並んでいる。
福島信夫ライオンズクラブ