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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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黒沼神社:信夫山と伊達氏とのかかわり

  昨日は久しぶりに晴れてあたたかかったので、信夫山を散歩しようと出掛けた。この山を散歩する時には、自然に満ちた小高い山なので、季節を感じることを中心にしてきた。
 しかし、今回は伊達氏とのかかわりのあるところを訪ねることにした。まずは、黒沼神社を訪ね、それからは気が向くままに歩いてみることにした。
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  この山を登ると直ぐのところに護国神社があって、黒沼神社は、その隣にある小さな神社だ。ここは、「松川の合戦」で、伊達政宗が本陣を置いて首実検を行なったところといわれている。

  「松川の合戦」は、関が原の戦いから一ヶ月後に起きている。これは、全国各地で起きた徳川家康方と石田光成方の戦いの一つだ。
慶長5年(1600)10月6日、伊達政宗が上杉景勝配下の福島城代本庄繁長と戦った。政宗には、伊達家の旧領であった福島城(大仏城)を上杉藩より奪回する思いもあったと思われる。この戦いを上杉家は「松川の戦い」、伊達家は「福島表の合戦」等と呼称したとのことだ。
「福島の伊達氏」によれば、政宗は、片倉景綱、石川昭光らに梁川城、桑折城を攻めさせ、自らは白石城から福島城を狙いはさみうちにする計画だったという。

伊達政宗は、まず、ここ黒沼神社一帯にかけ本陣をはったといわれている。
当時信夫山の南を流れていた松川をはさんで大仏城の本庄繁長と相対した。伊達軍は、曾根田・小山荒井・五十辺あたりで交戦し終始圧勝していたという。ところが、本庄氏は篭城作戦に切り替えた。城の防備が固かったので、長期化の様相を呈し、伊達軍にも死傷者が多くなった。また、政宗が翌日北目城へ帰陣しようと移動中、梁川城から駆けつけた須田長義に本陣を横から攻められ撤退をよぎなくされたという。
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  このときの両軍の戦死者塚が黒沼神社裏手にたくさんあったといわれている。木々を分け入って覗いてみたが、今はその面影はない。
  また、激戦地も、福島市街地の中心地なので、その面影は残っていない。
※松川が、現在の位置を流れるようになったのは、洪水によって信夫山裏に流れが変わったとのことだ。当時の松川は、今の祓川あたりとのことだ。
※関が原の戦いで徳川方が勝利したのは、9月15日で、その報告は各陣営に届いた。
by shingen1948 | 2007-11-26 04:18 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)