福島城②「伊達氏とかかわって」
2007年 11月 20日
① 伊達氏とのかかわり
② 大森城から杉目への移動
③ 板倉氏の居城として
そのうち、②の観点からは、「大森城から杉目へ:福島城にかかわって①」ということで、先日自分なりに整理した。
福島城と伊達氏のかかわりについて整理してみる。
福島県庁前に建つ「福島城跡」の案内板によると、応永20年(1413)伊達持宗が大仏城立てこもり、関東公方足利持氏に背いたとの記録があり、戦国時代末まで伊達氏の居城だったとのことである。
南北朝の動乱がおさまって、南北合一で室町幕府が成立するその時代、奥州では、伊達氏8代宗遠が北朝方に降服する。しかし、その勢力は根強く残っていたという。それどころか、信夫郡を勢力化に治め、北は宮城県まで攻め込んで領地を拡大さえしている。次の9代の政宗も宮城県から相馬郡にかけて勢力を伸ばしているらしい。
この時代、歴史の教科書的には、室町幕府は尊氏時代、鎌倉に「関東管領」を設けるという記述になるだろうが、それだけではないようだ。奥州の勢力を牽制するため、福島県関係では、関東管領五代目の時代には、出先機関として、篠川御所と稲村御所の二つの御所を置いたという。9代伊達政宗は、これに反抗して、応永9年(1402) 篠川御所に反旗を翻し、討伐され、西山城も落とされている。
それでも、伊達氏の勢いは温存されたようだ。確かめていくと、伊達氏は戦いには敗者となっても、また盛り返すという強さが感じられる。単純に、戦いに敗れれば、それで終わりということではないしたたかさが伊達氏の魅力なのかもしれない。
11代持宗の時代には、関東管領・足利持氏に反抗することになるのだが、その根城が、福島城とのことだ。この時、信夫山に居を移していた懸田定勝が味方しているらしい。信夫山もこの時代の舘の史跡と見れるらしい。
持宗は、幕府と関東管領の不和に乗じて反乱を起こす。関東管領軍の二本松畠山・白河結城・須賀川二階堂らとも戦い、一時は勝利するが、やがて敗れて会津に逃れる。ところが、それでもチャンスを狙い、幕府と関東管領の不和によって起きる禅秀の乱に乗じて、再び信達地方に勢力を盛り返す。伊達氏は、それから170年この地を支配することになるとのことだ。
※ 福島城の伊達氏とかかわる信夫山については2007.11.21に[信夫山:福島城②「伊達氏とかかわって」]で整理する。