地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島の民権壮士を訪ねる

半沢氏の「福島の自由民権家の事績を探るフィールドワーク」にも 「ふくしまの民権壮士」にも福島市の民権壮士として、名前があがっているが斎藤(阿倍)又郎と佐藤謙吉という運動家だ。
大森城跡を訪ねた時に、斎藤(阿倍)又郎の生家を訪ねてみようと思った。半沢氏の「福島の自由民権家の事績を探るフィールドワーク」によると、そこは、円通寺のむかいにある信夫支所跡が重なるようだった。行ってみると道路拡張工事に伴い整備されたために、そこは確認できなかった。
しかし、この円通寺も縁が合って、住職吉岡氏は、斎藤又郎の姉スミの孫というメモがあった。
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円通寺は大きな寺のようで、その沿革も気になった。大森城の案内板で円通寺が確認できるのは、明暦4年(1658)廃寺となっていた小倉陽林寺子院の円通庵が円通寺として館ノ内地内に再興されるとあることだけだ。再興される年代である明暦4年(1658)を確かめると、芋川氏の時代であることが分る。その頃の大森城の年表は以下のようだ。

慶長6年(1601)に芋川正親が、白河より大森城代として移ってくる。
慶長19年(1614)の大阪冬の陣には時の城代芋川元親が上杉方の武将として参加したりして活躍する。
  寛文4年(1664)に米沢城主上杉綱勝が急死して領地が半減されてしまうのだが、そのために、芋川高親は米沢家老として移っていく。この時、大森地方は幕領となり、大森城は完全に廃城となったということだ。

 小倉陽林寺子院ということなので、小倉陽林寺を確かめる。
すると、宮城県亘理町の大雄寺につながることがわかる。その沿革によると、芋川氏が大森城代なった年の3年後の慶長9(1604)年に亘理藩主となった安房守伊達成実が亘理郡へ移住する。その時に、父、実元の菩提寺である信夫郡小倉村陽林寺を亘理郡に移したのだ。移してから、萬松山雄山寺と号し、その後、藩主の法名を憚って、雄山寺を大雄寺と改める。伊達氏の菩提寺として280年の歴史を刻むが、元文元(1736)年夜に出火して本堂はじめ一切を焼失する。
境内には、成実廟・実元廟・実氏廟など、亘理伊達家13代の領主と夫人の御霊が眠っているという。
なお、実元の墓は、福島信夫郡小倉村の伊達岩菩提寺陽林寺にそのまま残されている。

  多分このことにかかわって、その子院であった円通庵が廃寺になっていたのだろうと想像がつく。
 真偽は確かめていないが、福島の凍み豆腐の由来は、この円通寺の住職が、高野豆腐を紹介したことによるとする記事も見つけた。
by shingen1948 | 2007-11-16 04:30 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)