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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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宮森城周辺を確かめる

  国道から宮森城に向かう途中に「腹切石」なる大きな岩があり、説明板が建っている。
 それによると、この石は、永禄の変の時、大河内備中の甥大河内宗四郎が太刀を振るって、城に入ろうとしたが、追っ手に敵が満ちて入れず、搦手に向かったが、追いすがる敵に進退窮まって、この石の上で腹をかき切って討死したとのことである。この時、宗四郎は若干22歳の時だったとのこと。
a0087378_9381224.jpg
 以下の経緯のうち、大内備前定綱が、主家石橋氏を打ち破り、当地の領主となる時のできごととのかかわりだ。
 永禄12年(1569)、大内備前定綱は、石橋四天王といわれた石川弾正、寺坂信濃等と共謀して、四天王の筆頭である宮森城主大河内備中を攻撃し、大河内家を滅ぼした。その後、さらに主家石橋氏をも追放し、天正8年(1580)四本松城(古舘)から、この城に移り、東安達(塩松)地方を治めた。
 しかし、同13年(1585)伊達政宗の小手森城攻撃での殺戮のすごさに恐怖した定綱は、自ら小浜城に火を放ち、二本松を経て、会津に逃れた。それで、政宗の父輝宗が宮森城に在陣するという経緯だ。

 なお、四本松城(古舘)を訪ねたことについては、「四本松城:岩代上長折の古館に迷い込んで」に書いた。
 また、小浜城については、「小浜城の伊達政宗に想いを広げてみる」で書いた。

 宮森城に入る少し手前には、伊達輝宗公ゆかりの御膳清水がある。以下の説明板が建っている。
御膳清水
a0087378_517571.jpg 天正13年(1585)当地の領主であった大内備前定綱を攻め滅ぼして、当地を併せて領するようになった伊達政宗は小浜城に、父輝宗は宮森城に居城した。
  同年10月、輝宗はニ本松城主畠山義継に拉致され、粟の須(現在の二本松)で悲壮な最期を遂げる。
 この清水は、輝宗公御膳清水として聞こえ、歴代城主の御用水であった。

 なお、この御膳清水は、名水ということで、県北農林事務所の「県北地方のおいしい水」に紹介されていた。
 岩の割れ目から絶え間なく水が湧き出ていて、以前は松の古木に抱かれるように清水が湧いていたとのことだ。その松は倒木の危険があったため、伐らざるを得なくなったとのことだ。
by shingen1948 | 2007-11-12 05:21 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)