地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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宮森城跡(上舘)を訪ねる

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 国道からの案内板に従って細道に入る。案内板に従って右折すると、そこに清水がありこんこんと水が流れている。
 そこから少し行くと、宮森城跡の案内板があって、ここが宮森城跡のようだと分かる。

 その宮森城跡入り口の説明板には次のように書いてある。

宮森城跡(上舘)
 応永3年(1396)年、宇都宮氏広が奥州管領に任ぜられこの地に築城し、四本松城と称した。其の後文明3年(1471)大河内修理が城を修築して宮森城と改めた。天正8年(1580)大内定綱がこの城に移り東安達(塩松)地方を治めたが同13年(1585)9月、伊達政宗との戦闘に敗れ会津に逃れる。政宗の父輝宗がここに在陣したが、同年10月8日。和議お礼のため訪れた二本松城主畠山義継に拉致され、阿武隈河畔粟の須で最期をとげる事件の発生したのがこの宮森城である。
岩代町教育委員会
 

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 門から坂道を上ってくると、一度平坦になるのだが、そこが八幡神社前になる。この石段を上ったところにある八幡神社のある平場が、宮森城跡だ。
 このあたりは、二の丸という感じだろうか。


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 礎石が残っていて、原型が保存されていることに感心する。

 ここが、粟の須事件の現場になったところの一つだと、状況を想像する。
 この屋敷で、輝宗は和議お礼のため訪れた義継と気を許して談笑した。二本松まで帰るという義継を送って玄関まで出た時、不意に義継が、輝宗を拉致する。伊達家の侍たちは狼狽したが、手出しもできずに後を追いかける。
  ……。
 そして、十里を過ぎた安達郡高田原というところで、2人とも最期をとげるという事件が発生する。
 先にこの最期をとげたという現場には来たことがあって、その時に「粟の須事変の辺りを散策する」として書いた。帰りに、またその現場の脇を通ってみる。
by shingen1948 | 2007-11-11 05:45 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)