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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大森城跡を訪ねる②上杉景勝の領地だった時代

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大森城に徒歩で登る登り口を登ると、信達33観音5番札所がある。別当寺は、円通寺のようだ。今回は、実際には山頂に登って、そこから徒歩でこの道を降りて、もう一度登りなおした。


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 その脇に芋川氏の墓がある。写真は、右から二番目から、元親・正親・綱親の墓とのことだ。
 脇に建っている案内板では、芋川氏について以下のように紹介している。

 北信濃(長野県)芋川郡を領していた国人武将武田氏に仕えた後、上杉氏に従い、上杉氏が会津若松へ封ぜられた慶長3年(1598)白河城(小峰城)に入り、関が原合戦後の慶長6年(1601)8月、大森城主となった。
 初代正親・二代元親・三代綱親・四代高綱で、高綱が寛政4年5月(1664)米沢へ移るまで4代64年に及んだ。
 なお、この墓碑はここより左手下椿舘の墓地にあったものを昭和36年9月に現在地に移転改葬された。
 
 大森城が、伊達氏との関わりで、重要な城だった頃については、「大森城を訪ねる」で書いたが、木村氏が城を杉妻城に移して、一度信夫の府城としての面影を失うところまでが一段落だろうか。
大森城の沿革と芋川氏とを関係づけてみる。

 その後、慶長3年(1598)に上杉氏が会津若松城に入って、信達地方が上杉景勝の領地になた時、大森城が復活する。この時点では、芋川氏は白河城に入るのだが、大森城にも城代として藤田信吉、ついで栗田国時が入っている。この栗田国時は、慶長5年(1600)に上杉家が反徳川家康と見て、藤田信吉とともに大森城を脱出し、徳川家臣となることを試みる。藤田信吉は江戸に逃げこんだが、栗田国時は追いつかれ伏拝坂で討たれて、家族は皆殺しにされてしまったという。
 それを受けて、慶長6年(1601)に芋川正親が、白河より大森城代として移ってくる。慶長19年(1614)の大阪冬の陣には時の城代芋川元親が上杉方の武将として参加したりして活躍する。
 寛文4年(1664)に米沢城主上杉綱勝が急死して領地が半減されてしまうのだが、そのために、芋川高親は米沢家老として移っていく。この時、大森地方は幕領となり、大森城は完全に廃城となったということだ。(信夫地区史跡保存会の年表より)
by shingen1948 | 2007-11-09 04:22 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)