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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大森城跡を訪ねる

この休みに、城山に行ってみた。子どもが小さい頃花見に連れてきたことがあった。それ以来だった。
この城山は、戦国時代に信夫地方の中心地として栄えた「大森城」で、臥牛城・白鳥城ともよばれたとのことだ。「大森城山を愛する会」の案内板によると、この城山は伊達氏と以下のように大きくかかわっている。
大森城が歴史に登場するのは、伊達氏の稙宗の時代あたりからで、16世紀のなかごろの
天文年間とのことだ。初代伊達実元、成実、片倉小十郎景綱まで50年余り伊達氏がここを支配した。そのあと会津の蒲生氏の支配となり、客将の木村吉潤が5万石を与えられて大森城主となった。
文禄2年(1593)ごろに、木村氏が城とともに麗の町屋、寺院を杉妻城に移したため、信夫の府城であった大森城の面影は失われることになった。

まずは山を囲む道路を一周してみる。西に向かう時、趣のある水路を見る。掘りの一部と勝手に想像する。一度広い道路に出て、それからまた山を回りこむ。
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すると、城山と向かい合う西手の山に八幡神社をみつけた。説明はないが、なぜか伊達氏と似合うと勝手に思って写真におさめた。
南西の部分は山続きになっている。ここから引き返し、中学校の脇から山頂に向かう。
 山頂は公園化されていて、城跡の面影はない。城跡の面影を残しているのは、この空濠跡だろうか。
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この山は、東南が急崖に面し、西北に低い丘陵に連なるので、地形上からは西北方の防備に力を注いだものだという。その防備の一つがこの空濠で、別名「腰廊」ともいう。城の本丸を囲むように築かれたこの空濠は、深さ4m、幅6mと推定されている。
空濠は水のたまらない濠のことで、兵器が弓・槍・刀・などによった中世の戦争には、有力な防備施設であって中世城郭にはよく備えられたものとのことだ。
これを西の固めとして、中世武士がこのあたりを巡廻したであろうという。(案内板より)
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 山頂が本丸跡で表示の石塔が2つと忠霊塔、それに思い出の塔が建っている。それに、古墳の再現したものもあるが、戦国の城跡と係わる史跡は、広場と遠望だけだ。この写真は、北東から徒歩で登る道方面から山頂を眺めたものだ。
  この山は、標高143mで、本丸跡は東西70m、南北に100mほどの広さだ。ここからは東、北、西の方角がよく遠望でき、戦乱のころの大森城の位置と役割をしのぶことができる。(「大森城山を愛する会」の案内板より)
by shingen1948 | 2007-11-07 04:45 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)