映画 「特攻」でぶつけていた疑問の視点から
2007年 11月 05日
何故、彼等は特攻を志願したのか。
自らの命を捨てる行為に恐れはなかったのか。
そして、何故彼等はそれらのことを語ることはないのか。
その問いから引き出されてくるのは、個人に非情な犠牲を強いた当時の状況であり、特攻の生き残りの方は、現在だから、そして、聞かれるからいえる本心である。
特攻に志願した方は、狂信的でも、軍神でもなかったのだ。本当は日本人ならとうに分っている。はっきりさせなかった部分だと思う。
日本の敗北については、客観的に分っていたという。移動する時に、空から観た状況や、外国のラジオ受信と政府発表に差があることを、特攻は知りえる状況だったようだ。それでも言ってはいけない立場だったので言わないでいたのだ。
このこととのかかわりで、生き残った元特攻隊員の方に、「ヒロシマ、ナガサキの方には悪いが、これで生き残れると思った」という発言があったと思う。
一見すると、アメリカ人の感覚と思えなくもないが、そうではなく、日本では、あれがなければ、もう末期的な様相を呈している戦争をとめることのできるシステムが機能しなくなっていたということだと思う。始めるシステムはあったが、やめるシステムが無くなっていたということである。
エンペラーを象徴することで、「忠義」に抵抗できなかったということと、終わることを想定したプログラムがなかったのではないか。
今を考えるとき、そういった忠義の心を強制するエンペラーに近い象徴を創造することに夢見たりする亡霊が息を吹き返したり、終わりを想定しない始まりはないのかという監視の視点を得たような気がする。
※ 元特攻の方の「物資の差で勝てるはずがない」と思った理由の具体例の一つとしてあげた松の根の油をガソリンに混ぜて使っていたことに関して、その「製油の資料」を思わぬ所で見ていたことを思い出した。
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