人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

日本のナイチンゲール「瓜生岩子」

a0087378_4304397.jpg   福島民報の「没後110年 再び光」と題する記事の切抜きをみつけた。日本のナイチンゲーるといわれた喜多方出身の社会慈善家、瓜生岩子没後百十年を記念して、「讃える会」が発足するとのことだ。記事によると、それが19日ということだが、9月だったか10月だったか、切り抜きに月日を入れておかなかったので分らない。>
その拠点が、銅像が建つ東京・浅草の浅草寺ということが、興味があった。記事では、幕末から明治にかけ、孤児や貧しい人たちの救済に一身をささげた岩子の功績に再び光が当たるとしている。 功績と銅像が建った経緯について以下のように説明している。
 
 岩子は幕末の戊辰戦争で戦火の中、敵、見方の区別なく傷病兵の看護に従事。その後は身寄りのない子どもやお年寄りを世話する養育院貧しい人を無料で治療する病院をつくるなど医療、福祉事業に一生をささげ、女性で初めて藍綬褒章を受章した。活動の範囲は東京にも及び、明治34年に篤志家によって浅草寺境内に銅像が建てられた。
 東京での活躍というのは、「福祉は人なり」で確かめると、次のことのようだ。
 会津での実践の後、1872年、44歳の時、東京深川救養会所で貧民救済実践と研究のため上京し、貧困な民衆の貧児孤児を対象とした活動をしたことであり、このことを境に、在宅保護から収容保護へ変化を遂げているとのことだ。
 更に、福島での実践の後、1891年、63歳の時、請われて東京養育院で児童養護実践をしている。

 ナイチンゲールという言い方とのかかわりは、現場での救済と医療活動ということであろうか。「福祉は人なり」から、かかわりを抜き出す。自分の頭は、元号がないと時代を整理できないようなので、(元号)は、自分でつけた。
 現場での救済ということでは、以下の事柄である。
   1868(40歳)戊辰戦争下の傷病幼老者救護(明治元年)
   1888(60歳)磐梯山噴火 罹災者救済活動(明治21年)
   1894(66歳)日清戦争出征軍人慰問 (明治27年)
 その他に、以下の病院や産婆看護婦養成にかかわっている。
   1891(63歳)喜多方に産婆看護婦養成所を設立(明治24年)
   1893(65歳)若松に産婆看護婦養成所を設立、私立済生病院を若松市へ開設(明26年)
   1894(66歳)私立済生病院を若松市へ閉鎖(明治27年)

  医療活動は分るが、それが産婆とかかわることについては、よくはわからない。封建制度とのかかわりで堕胎ということと関係するようだが、そのことについては調べていない。

 長楽寺「瓜生岩子遺髪塚由来記」内容
 瓜生岩子1829年喜多方に生まれる。
 幼少より幾多の辛酸貧苦の中に育ち加えて若くして冥婦となる。明治の黎明すでに社会福祉事業に関する志つとに篤く、会津戊辰戦役或いは日清戦争に傷兵窮民の看護救助に精魂を傾く。
 また幼学校を設置し、孤児を収容し教育を与え更に婦人の授産指導等にその導き一生を捧ぐ。
 長楽寺29世天鳳組雄禅師に帰依し、当寺に今日の福島愛育園の前身たる福島育児院を開設し鋭意発展に尽力す。その他数多くの社会奉仕事業精進、1896年69歳の栄光の生涯を閉づ。
 吾等福島ライオンズクラブ一同はこの偉大なる先駆者の意志と志を同うし、日夜また社会事業に従事す。今も先人の崇高なる精神を讃えその名声を永遠に後世に伝えんとする為に一碑をこの尊像に供えて建設するものなり。
 1980年福島ライオンズクラブ一同
 藤村多加夫撰
by shingen1948 | 2007-11-02 04:33 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)