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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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長楽寺と瓜生岩子

 長楽寺に行ったとき、何故ここに瓜生岩子の像があるのか認識不足のために分からなくて、そのままになっていた。福島市内では、蓬莱の愛育園とのかかわりを聞いたことがあるだけだった。氏は会津の人であり、福祉活動の人というイメージしかなかった。
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 先日、本田久市氏の「福祉は人なり~福島県社会福祉人物史抄」(歴史春秋社刊)をみつけて読んだ。その中に岩子の長楽寺との係わりについて書いてある部分があった。

 1873年45歳の時、喜多方の長福寺に貧民収容救済を始める。その後、1887年59歳の時、この寺に転居して、県都での実践を開始する。そして、2年後には、福島救育所を設立する。
 63歳の時には、上京して児童養護を実践するとともに、会津の三郡に育児会を設置する。そして、1893年には、現在の福島育児院に発展する鳳鳴会育児部を福島に設立している。

 福島育児院の発展したものが、福島愛育園なのだろうと想像がつく。更に、県都で実践することによって、社会的な広がりになることを意図していることがわかる。長楽寺が県都にあったことが一つの要因であったということだ。更に、東京での実践へと発展させる足がかりでもあったのだろうか。

 寺の「瓜生岩子遺髪塚由来記」は、イワの業績を、以下の三点述べている。長楽寺とのかかわりでいえば、②の活動の拠点としての役割だろうか。
① 会津戊辰戦役或いは日清戦争に傷兵窮民の看護救助
② 幼学校を設置し、孤児を収容し教育を与え
③ 婦人の授産指導等にその導き一生を捧ぐ。

 氏は、広い範囲で活動していたようだ。①との関わりでは、先日観た「その時歴史は動いた」の戊辰戦争の悲惨さが原動力になっていることが想像できる。戊辰戦争の悲惨さが、瓜生岩子の慈善救済の心を引き出したということだろうか。使命感に燃えて、戊辰戦役の傷兵窮民や看護救助に奔走する姿が想像できる。
 ③のかかわりについてのイメージは沸きにくい。ただ、ふと産婆さんを讃える碑が大玉にあったことを思い出した。
 それにしても、がむしゃらに走り回っていることが想像できる。行動の人であったように思える。
by shingen1948 | 2007-11-01 04:36 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)