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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「その時歴史は動いた」をみる

「その時歴史は動いた」をみる_a0087378_413435.jpg  2007年10月17日放映[その時歴史は動いた」は、会津側からみた戊辰戦争を描く松平容保の決断についてだった。題は、「義に死すとも不義に生きず」~会津戦争 松平容保 悲運の決断~]だ。
 放映日には用事があったので、家族に録画してもらっていたのを観た。
  番組では、松平容保が、京都守護職に着くあたりから描いていた。このあたりに住むものにとっては、常識に近いものなのだが、こうして一つの番組になるということは、全国的に見ればローカルな考え方でしかないのだろうと改めて思う。(※ 写真は、番組には関係なく、白虎隊が自害したと言われている場所)

 司会者の「決断が遅かったのでは」との言い方に、腹が立つ自分がいる。勝敗の分っている結果に対する考え方と結果よりも義をとるという考え方の違いが、説明しきれているとは思えなかった。
  ただ、深入りしないが忠義を尽くされる方々が、裏切っていく中での忠義ではある。忠義とは、下々の道徳でしかない。
 容保に全責任を押し付けて、大阪を脱出する徳川将軍しかりである。容保の決断に従って自らの命を捨てる武士達と、謝罪を認められて生きのびる松平容保しかりである。実は、この会津戦争直前の二本松の悲劇についても、二本松落城時には藩主が、逃げのびて無事だった。責任をとったのは家老以下の話だ。
 忠義とは、下々が守るべき道徳であり、それによって、上に立つものが生きのびるということである。上に立つ者は忠義には心で答えるという義務はないのも確かだ。

  歴史も真理に欺くことは、恵日寺の徳一の中で学んだ。真理に近い方が、歴史的に受け入れられているという訳ではないことだ。

 そう思うと、確かに司会者の言う「決断が遅かったのでは」という質問に合点が行く。長いものに巻かれろとは、悪意のあることわざかも知れないが、生きのびるのには大切な教訓かもしれないと思う。そのために払った会津の人々の犠牲は、大きかったことをこの番組をみて確かに実感する。



「その時歴史は動いた」放送概要
その時 : 明治元年(1868)9月22日
出来事 : 会津戦争が終結し明治新政府が本州制圧をほぼ完了する。

  戊辰戦争最大の悲劇、会津戦争。東北地方の制圧を目指す明治新政府に対し最後まで抵抗した会津藩では、女性や子供など数多くの命が失われた。この戦いを指揮したのは元会津藩主・松平容保。「精忠天地を貫く」と讃えられた若き指導者である。
  幕末、容保は忠義と誠の心をもって主である徳川幕府を立て直そうと奔走する。しかしその徳川への忠義は、誕生したばかりの明治新政府にうとまれ、会津は反逆者の汚名を着せられる。容保ら会津藩は「義をもって倒るるとも不義をもって生きず」という思いで、新政府軍との全面戦争を決意する。
  圧倒的な戦力で攻めこむ新政府軍。籠城戦を強いられた会津藩では家臣やその家族が次々に倒れていく。容保はこの事態にどのような判断を下すのか?
時代の激流のなかで己の正義を貫こうとした松平容保、会津戦争における運命の決断を描く。
by shingen1948 | 2007-10-31 04:21 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)