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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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徳一の優位性についての読み取り(勝常寺と徳一)

 司馬遼太郎氏が、恵日寺に立ち寄り、徳一について思い描きたかったことは、最澄と徳一の論争だ。徳一は、弘仁7年から弘仁7年まで最澄と論争したほか、空海をも痛烈に批判した。この奈良と会津を行き交う時間的空間的広がりの中での論争の壮大さに司馬遼太郎氏は感慨にふけっている。

徳一を讃える感覚には二つあって、その一つは最澄や空海と同じように偉大な奈良仏教の始祖という感覚であり、もう一つが、最澄や空海と違って本質的なのではないかという感覚である。
  「勝常寺と徳一」の中で、先の感覚にかかわることでは、徳一が会津をめざしたことについての記述だ。
 奈良時代末期から平安始めにかけて、都を離れて地方布教に乗り出す僧たちがいた。有名なのは、日光山の勝道上人、箱根権現や鹿嶋神宮寺を創設した満願上人であるが、徳一もその中の一人だ。
  徳一が会津を目指したのは、「沙門の荘侈を嫉(つつし)み」ということから。そのことは、空海の徳一宛の書状から読み取れる。
  「そのように高徳高智の方が、貪りを去り、迷いを払い去ろうとして、都を離れ、錫をふるって東国に向かわれ、ここにはじめて道場を開き、衆生に救いの道をもたらした。」

  徳一と最澄・空海との違いは、法相教学と天台・真言宗の違いということであり、これは素人には難かしい。とりあえず、「勝常寺と徳一」の中からこの事に係わる概観を記録しておくに留める。同書では、二つの観点から徳一の論理の優位性を主張している。

その一つは、天台最澄は、一切衆生に仏性を認める一乗仏教であるのに対し、徳一は、法華教はあくまでも方便の経で、釈迦の真実の教えではないとする。(最澄の反論文「照権実鏡」より推量とのこと)
  徳一は、このことについては、五性格別の考えをとっているとのことだ。
  五性は、定性の三乗と不定性種と無性有情からなる。師につかなければ悟れない人もいれば、独力で悟れる人もいる。自分しか悟れない人もいれば、他人をも導ける人もいる。更には、そのうちのどれだか分らない人もいれば、悟る能力のない人もいる。

  更に、このことについて2人の現代の哲学者の考えを紹介する。
人間全てが完全な人格、つまり仏であるならば、救済は必要ない。個々人が努力して悟りをひらけばすむのである。それが不可能だから絶対的な何かに自分の身を預けることになる。(哲学者の湯浅泰雄)
それぞれの個体は、その内奥の本質において隣人とは天地の隔たりがある。(ユングの言葉)

それでも、現実の世界では徳一に対峙した仏教の方が凌駕していく。最澄の比叡山から、栄西、法然、親鸞、道元、日蓮など鎌倉新仏教の祖師が出ている。しかし、それは本質的なものは失われ、現世的性格が増すに連れて、民俗宗教に変貌したとみる。ありのまま全てを肯定し草木にまで仏を見ようとする本覚思想は、土俗信仰の影響であり、その結果として、仏教は、南北朝では、神道、近世では儒教に取って代わられるという歴史をたどったのではないかとする。




  法相教学について、本書よりの概観をメモしておく。

 法相教学唯識思想で自己の心を解明し、深層の意識の阿頼耶識にまで至り、すべてがそれに基づいていることを知り、最終的に阿頼耶識を転じて、悟りを実現するというものである。
阿頼耶識は、それ自身の内に内在する諸々の種子を持っていて、万有開発の根本原因となる。
 真実の実在があるのではなく、経験の蓄積によって形成される個人我が全てを支配する。どんな人間もそれぞれの個人我が存在し、個人我は、死ぬことによって滅びるが、阿頼耶識によって蓄えられた種子は再生される生命に受け継がれる。

 五性格別の考え
 ○ 定性の三乗は次の三つ
 ・ 声 聞    ~師につかなければ悟れない人
 ・ 縁覚(独覚) ~独力で悟る力があるのに涅槃に入ってしまうので、教えを説いたり他をうことはしない
 ・ 菩薩(自覚自他)~自分が悟り、他の人も救う
○ 不定種性 ~定性の三乗のどこに進か分からない人
○ 無性有情 ~悟能力がない人(死後に再度人間界か天界に生まれることはできる)

空海真言宗の即身成仏についての批判
菩薩は6度の無量の行を修めなければならないが、禅定を修めるだけでしかない。菩薩は一切衆生を涅槃に入らせなければならないのに、衆生を捨てて即身成仏するとすれば、慈悲を欠くことになる。(真言宗未決文の即身成仏疑)
 ※ 即という考え方は、インドの仏教に原型があるにしても、中国で発展し、日本で成熟した。
その底には、現実の人間の在り方をそのまま現実の人間の在り方そのまま仏の世界として肯定していく本覚思想が流れている。少なくとも正統な立場は、あくまでも歴却修行である。
by shingen1948 | 2007-10-30 05:08 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)