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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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恵日寺を中心とした仏教文化を思う

徳一一人だけを見詰めようとすると、全体像がぼけてしまう。徳一が会津へやってくることとは、その影響下の人が動くということである。その観点から、「勝常寺と徳一」を読み直す。

  副題「みちのくに大きな仏あり」にあるとおり、その一は仏師であろうか。
  本誌では、その時代背景を明らかにして、彼を頼ってやって都から仏師がやってきただろうことを推定している。
 和銅3年(710)から延暦13年(794)天平時代は、桓武天皇が諸国に国分寺、国分尼寺を建立するとともに、奈良東大寺に大仏を創建した。特に、東大寺の造営には、役所が設けられ、彫刻は造仏所で制作されていた。それが、桓武天皇の時代になると人心一新をスローガンに平安遷都が行なわれた。これによって奈良仏教に関係する工人も徳一を頼るしかなくなった者も多くいた。その中に勝常寺薬師三尊を手がけた仏師を想像する。
 一木割り萩作り技法が、平安の早い時期に会津で作られていたという文化庁の見解は、平安中期以降に都を中心に全国に広がったとされる造仏技術の先進性を示す。

 その二は、徳一のスポンサーともいうべき協力者であろうか。
 本誌では、崇神天皇の頃に四道将軍の一人であった阿部氏を挙げている。北陸から会津に入ってきた阿部氏の一族の勢力圏と徳一建立寺院が一致していることを推定の論拠としている。また、荘園との関係という観点から、以下の協力者も挙げている。
  藤原緒嗣は、東山道観察使兼陸奥出羽鞍擦使として任地を視察しその功によって会津郡蛭河荘に荘園を賜った。徳一は、その庄司寺僧として派遣されたとされる。徳一をバックアップしたのは、藤原氏の菩提樹興福寺の春日仏師が漆を手に入れたかったからという推定があったことも記している。ということは、徳一は、文化創設に必用な技術にかかわるものを手に入れることのできる人脈の中に居たということでもある。
阿部氏一族や法相宗ゆかりの貴族の庇護を受けていることは直ぐ分るが、その他に、記録には残っていないが、旧来の会津の豪族の匂いを、大塚山古墳先行豪族の存在と高寺の勢力の先行から想像し、大化3.4年(647.648)越後に置かれた柵が、北ばかりでなく、東側の山並みに向いていて、その向こうの会津を念頭に置いている感じがすることを論拠に、庇護する力あるいは独立した文化の存在を推定している。

これらの論拠を推し進めると、大陸から仏教がいち早く伝えられてた歴史や、仏教を尊ぶ渡来人の末裔が存在していた可能性も否定できなくなる。これをもとに、徳一が会津を目指した根拠を発展を秘めた地と考えたことを推定している。
 徳一がこの地を選んだのは、修行の場とてだけでなく、新たな種をまくべく都を後にしたかもしれないとする大胆な仮説だ。確かに、外からの文化の伝来は日本海側からであることを観が売ると、一つのルートで文化が伝わっていくということには、無理があると考えられる。

  更には、直接的なつながりではなく、対抗する人たちの対抗心を推定している。具体的には、会津の直ぐ隣りにあった鑑真上人の第四祖道忠教壇である。徳一を意識し、会津に勢力を広げようとしたのではないかという。最澄自身弘仁8年(817)に東国に足を伸ばしたのは、徳一を意識したのではないかと推定している。

本誌では、こういう状況下で、徳一が関係したといわれている寺の広がりを以下のように記述している。
  建立した寺は、福島県ばかりでなく、茨城県山形県栃木県群馬県など33箇所にのぼり、徳一の東国や陸奥への布教がかなりの規模であったことがわかる。
  会津では、湯川の勝常寺や磐梯町の恵日寺だけでなく、会津高田町の法用寺、仁王寺、柳津町の円蔵寺、光泉寺、只見町の成法寺、西会津町の妙法寺、勝善寺などがあげられる。


  勝常寺についての探索を考えて検索したら、仏像を拝観するには、直接寺に連絡することとある。ということは、寺で管理していることであり、国宝になった今でも現役で人々の願いに応じているということである。恵日寺の発掘調査などその文化を伝承しようとする思いを感じてはいたが、生活に根ざした伝承の心意気のようなものを改めて知った。恵日寺を中心とした壮大な仏教文化圏の痕跡が生活や人々の心に刻まれている。 
by shingen1948 | 2007-10-29 04:43 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)