人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

山岳宗教と恵日寺、そして廃寺②

 高湯温泉と恵日寺とのかかわりを確認するには、恵日寺が、磐梯吾妻の修行とどうかかわっているかというところが大切だ。「会津恵日寺」に書かれていることから、その部分を確認する。
  恵日寺が、磐梯修験の中心として、盛況を見たのは確かなようだが、これは鎌倉から室町初期にかけてであり、寺としては衰退期に入っていることが分かる。一部の伽藍は礎石を残すのみという状態になっている時だったとの記載になっている。
 
  この時点では、不動院が会津の修験としては権威を持っていたようだ。その頃に、恵日寺も毎年数日間参籠し読経を行ない、磐梯吾妻の修行に活躍した跡が見えるという。吾妻参拝には、二つの寺の証文があり、成就院は酸川野口、恵日寺は小野川口持分で、山先達の役割としていたということのようだ。
a0087378_5263146.jpg
 恵日寺には、こうした盛衰興亡の歴史があるが、衰退の最初の危機は、天正17年(1589)の摺上原の合戦で寺が兵火にかかったこととのことである。そして、最大の危機は、明治2年(1869)の神仏分離政策だったという。磐梯神社が独立し、幕末まで有していた23寺を失った。廃寺と供に住職は神官となり、山岳宗教の霊場だったのに仏教建造物は破棄され、一切の寺宝は取り払われ、各地に四散したとのことである。
  近ごろ、伊達政宗について確認することが多くなっているが、政宗の仕掛けた摺上原の合戦が、この寺の存続の最初の危機を招いたということも、その確認することの一つだ。また、会津を中心とした戊辰戦争の戦火をくぐりぬけた後に、会津の寺には、再度神仏分離政策による嵐が吹きまくるという悲惨さを味わうことになるという状況を確認する。

  この寺を最初に訪れる時に、これらの概要を予備知識として持っていなかったことを後悔する。 
by shingen1948 | 2007-10-27 05:44 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)