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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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霊山と伊達氏

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 学生時代に初めて霊山を訪れたのだが、その時には奇岩怪石がそそり立つ景色に圧倒された。それから何度か来ているが、そのたびにこの秀峰に見入る。子どもが幼稚園生になったとき、この景色を見せたくて連れてきたのだが、「テレビの画面のよう」とはしゃいでいたのを思い出す。

 この秀峰は、南北時代に北畠親房・顕家・顕信父子が本拠地にしたことは知っていたが、伊達氏との関わりについては意識していなかった。「福島の伊達氏」(福島民報刊)の中に、その事にふれているところを見つけた。南北朝時代には、伊達氏は7代行朝(行宗)の時代であり、伊達氏は、終始一貫して、北畠親房・顕家・顕信父子に従ったが、あまり知られていないとした。そして、伊達氏が一貫して南朝を支援した理由に以下のような要素があることを示唆していた。
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 阿武隈山系の中で名にしおう秀峰で、奇岩怪石がそそり立ち、いまも県北地方有数の観光地として知られるこの山は、9世紀の中頃、慈覚大師が清和天皇の勅を奉じて、霊山寺という寺を建てたことがその名の起こりという。盛時には、寺領内に3600の僧坊があり、カネの音は10里四方に響いたと記録されている。(中略)
 伊達氏の領内にあったとはいえ、当時、霊山は天台宗僧兵の一大王国を形成していたわけで、その大本山比叡山には後醍醐天皇が難を逃れたいきさつもあり、伊達氏としては、霊山の動向と無関係でいるわけにはいかず、自然南朝方に加担することになったという見方もできよう。

 このことをどう考えるかというヒントが「勝常寺と徳一~みちのくに大きな仏あり」(笠井 尚著)にあった。これは、徳一をどう評価するかということとのかかわりで記載されたものだ。

 哲学者の山折哲雄が、水沢にある黒石寺の薬師如来を論じる中で、天台の本質を以下のように言っているという。
 カミの名において奪い取ったみちのくの領土を、こんどはホトケの名において鎮撫する役割を負わされたのが天台の仏教である。

ここでのカミとは、常陸の鹿嶋神社であり、信州の諏訪神社で、坂の上の田村麻呂もそこの神社で東征のための加護や戦勝祈願をしているという。
 東北地方の代表的な霊山と言われているところはほとんど慈覚大師(第3代天台宗座主円仁)が巡錫し、そこでお山を開いたと言うことになっている。それはどうやら坂の上の田村麻呂が征服したあとに、慈覚大師の伝承を持って鎮撫して歩いた天台宗の坊さん達がいたからではないでしょうか。つまり、宗教的な鎮魂の仕事をするために天台僧が動員されていた。征服地に天台宗の香を運ぶことによって、その他の殺された人々の魂を鎮めようとした。

 坂の上の田村麻呂と 慈覚大師の間にはそういう連携の関係があったのではないかというのだ。平安時代の天台拡大もバックに朝廷がひかえていたのがその理由だという批判である。

 霊山に、そういう見方を当てはめると、確かにぴったりと当てはまる。
by shingen1948 | 2007-10-25 04:17 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)