深堀の温泉街跡を訪ねる②
2007年 10月 09日
深堀の温泉街跡に何度か入ったが、「文政7年岳山変事供養観音」が確認できたのは最近だ。
気に入った風景に出会うため、いつも同じ入り方をするのだが、入って直ぐ右手の所に案内板は立っていた。みつけてしまえば、こんな大きなものが何故目に入らなかったと言われそうだが、本当に見えなかったのだ。
文政7年岳山変事供養観音
岳温泉の湯本は、安達太良連峰の鉄山の真下にあります。この湧出地は貞観5年(863)には小結温泉神 として記述され、 明応5年(1496年)頃より繁盛し、一般湯治も行われてきました。ところが、文政7年(1824年)8月15日(太陽暦の9月7日)に豪雨のために鉄山の一角が崩壊し湯小屋11軒は土砂に圧し潰れされて二百数十人の死傷者を出す大惨事となってしまいました。雲堂和尚が漢文10年(1670年)に山止めの祈願に梵字石を刻み、山神を縛し150年間の山中での歓舞音曲を許し賜って154年目の事です。この惨事に際し二本松藩では4日間に渡り述べ人員2200人の救援隊出し救助にあたりました。藩の正式の記録には、死者63人怪我46人無事87人の 196人が記されていますが、この被害報告には記録されていない人別長(戸籍簿)から抹殺された湯女が約100人もいました。これらの人々で亡くなった方の遺体を深堀村に運び手厚く埋葬し、安らかなる永眠を願い観音像が建てられています。この案内板に記載されているのは、鉄山ふもとに岳温泉があった時の出来事だ。この壊滅的な被害によって、岳温泉は十文字温泉へ引っ越すことになる。ひっそりとではあるが、その事変の記録が、ここにあることに驚く。しかも、公式には犠牲も明らかにされぬ湯女の生身の遺体を慰霊すするためここに運ばれてきたということを想像して慄然とするものを覚える。
(建てた方の名前はない)