地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

飯盛山へ行く

 観光客になって、飯盛山の石段を登りながら、司馬遼太郎氏の「白河会津のみち」の結び近くの描写を思う。
日本中がそうであるように、このまちでも、劇的なものが観光事業化されて、さわがしく再演出されている。
 白虎隊の墓のある飯盛山のふもとの石段のまわりには、みやげものやがひしめき、石段に有料のエスカレーターまでついていた。

 そして、はじめてこのまちにきた20年前が、なにやら懐かしい思いがせぬでもなかったと結ぶ。

a0087378_5225931.jpg  劇的なものは、白虎隊の切腹である。その中から、静かなる部分を確認すると、切腹した白虎隊の墓の東側に並んでいる。こちらの白虎隊の戦死者の墓の方をみながら、司馬氏の、会津藩についての感慨を思う。
 明治維新というのは明らかに革命である。
 革命である以上、謀略や陰謀をともなう。会津藩は、最後の段階で、薩長によって標的にされた。会津攻めは、革命の総仕上げであり、これがなければ、革命が型式として成就しなかったのである。会津人は、戊辰の戦後、凄惨な運命をたどらされた。
 かれらは明治時代、とくに官界において差別された。

 氏は、無駄口と断って、明治維新が起きる30年前の天保の改革にふれ、幕末の経済的な側面についての見解を述べている。おおよそ以下の概略だろうか。

  雄藩の中で、薩長などは、カネ(殖産興業)に身を売るような、無節操さがあった。次が、土佐藩、肥前佐賀藩である。薩摩は、茶坊主上がりの者を大抜擢し専売主義の経済を、長州藩は身分の卑い者を一任して、専売のわくを緩めて商品生産を活性化した。身分制度もゆるみ、商業国家体制だったと見る。

 会津は、商品奨励主義の考え方は存在したが、封建制度が精密であったので、体質的に商工業になじまなかった。危機救済は、天才を必要とし、しかも全権を与えられなければならないのに、会津は身分制度がしっかりとしていたので、つねに世襲の重臣が担当した。

 それでも、江戸後期の社会は、カネの世になった。西方諸藩は、大型庶民を待遇して、国家に対して一体感を持つ国民を創りだした。

 経済的側面からすれば、高度に精神文化ガ高かった故に、時代に乗り遅れたとする氏の見解が、会津の精神性を温かく包み込む。
それが、松平家歴代墓所の山で、風倒木が道をふさいでいたことと、飯盛山の様子を見て、先入主と違うものとしてがっかりして見せていることに共感したい。 
by shingen1948 | 2007-10-06 05:30 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)