地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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蒲生氏郷の墓を訪ねる

「街道をゆく」で、司馬遼太郎氏が会津に入った時の記述を思い出した。確か、最初に訪れたのは、栄町の興徳寺であったはずだ。ここには蒲生氏郷の墓がある。
 それで、観光客になった自分もここを訪れようと思った。
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 氏の印象は、伽藍もなく、右手にコンクリート造りの建物があり、その奥に氏郷の墓所があって環境的には気の毒との感想を持ったようだ。
 しかし、墓そのものには、古風を保ち、石垣の上に土を盛り、芝を植えて、その上に堂々たる五輪塔が据えられているとしている。姿もいいとした。墓の側に辞世の歌碑が、会津史談会の名で建っていることや、墓前の供花をみてゆかしくは感じたようだった。

  歴史に詳しい氏は、この寺のイメージが大きく膨らんでいて、現実の寺を観たときにその落差が大きかったことが分る。
  歴史上は、会津若松城第一等の寺であり、臨済宗妙心寺の名刹ということで、期待したようだ。また、寺そのものは鎌倉時代からあって、京都五山や鎌倉五山に次ぐ臨済禅の会津における根拠地とのことだ。
  葦名時代は、境内が8丁四方もあり、一時的に制圧した伊達政宗もここを仮の居城にしたというし、豊臣秀吉が、奥州を新秩序にすべく会津に入ったときは、ここを臨時の政庁にしたという。
 氏は、そのイメージとの落差にがっかりしたのだろうと思う。

 この記述は、「街道をゆく」33「白河・会津のみち、赤坂散歩」にある。
 記述をたどれば、氏が会津に入ったのは白河からだ。羽鳥湖を経由して、121号国道に出て、大内宿に立ち寄っている。ここから若松に入ったようだ。本当は、二本松街道を入り途中で磐梯町の恵日寺に立ち寄りたかったようで、徳一については詳しく記述されている。

 氏が、ここで語る蒲生氏郷は、一つは、領地経営能力についてであり、もう一つは、この地にやってきた意義である。
 氏郷の築城設計と都市設計(町割)と商工業を中心とする領国経営の能力が優れていることを具体例を挙げて説明する。七層の天守閣を持つ居城を築き、町割りもする。かつて伊勢松坂に移った蒲生郡の日野商人は、城下に日野町(後に甲賀町)という商工業町を形成したという。

 秀吉にとっては、奥州50余郡の武の地でよほどの器量の者を会津にすわらせその鎮めにせねばならなかった事情のようだ。それが、氏郷にとってはどうだったのかということを述べている。大領を領することと引き換えに、政治の中心からは離れてしまうという立場について、氏郷はどう思っていたのか。

 ここで、司馬遼太郎氏と表現しているが、本当は自分にとっては雲の上の人だ。泊まったホテルまで気になる。白虎町のホテルからという記述から、「ワシントンホテル」か「グリーンホテル」
だなと想像して、三面記事追っかけの気分もある。
by shingen1948 | 2007-10-03 04:48 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)