地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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戊辰戦争の非情さの象徴を訪ねる

  会津若松の観光客数が年々減少しているという新聞の記事を見たのは何年前だろうか。この時、比較されていたのが隣町の喜多方で、小グループ対応で観光客数を伸ばしていた。会津若松も団体対応から、小グループや個人客も対応できるように観光の開発を変えているということは聞いていた。機会があって、観光旅行をする個人という視点で、会津若松市内の印象を感じてみた。
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  繁華街を歩いて疲れたので、七日町駅に立ち寄った。ここも街づくりの一環としてかえたという噂は聞いていた。
  確かに、道の駅風に地元の産物が置いてあって、それを眺めたり、コーヒーを飲んで休めたりできるようにもなっていた。そこに置いてある観光案内のパンフレットを見ると、阿弥陀寺が気にかかった。

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  この寺はこの駅の向かえにあって、戊辰戦争の会津藩戦死者の墓があるとの説明だ。確かめてみることにする。

  阿弥陀寺境内には案内板があって、「戊辰戦争の悲しみを残す阿弥陀寺」として、会津藩戦死者については、以下のように解説されていた。


「戊辰戦争の悲しみを残す阿弥陀寺」
 (前略)
  明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。幾度もの懇願で埋葬が許可されたのは、翌2年2月のことでした。埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には1300柱にものぼる遺骸が埋葬されました。春・秋の彼岸には手厚い供養会が行なわれます。
(後略)

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 ここに出ている長命寺にも行ってみることにする。この寺は日新小学校近くで、小さい頃に住んでいたところから近かった。会津藩戦死者にかかわる案内板を探すと、寺の右手にある墓地の中にあって、次のように説明されていた。


「戊辰戦役 会津藩士戦死者之墓」
慶応4年(1868)戊辰戦争中の8月29日、ここ長命寺付近で大激戦があり、会津藩側に多くの戦死者が出た。
9月22日会津藩の降伏開城により戦争は終わったが、城下の会津藩戦死者の遺骸は、新政府から埋葬が許可されず、翌年の雪解けまで放置された。
 これを見かねた、時の長命寺住職幸證師は、年の暮れに付近の遺骸を密かに埋葬した。その総数は145体と言われている。墓碑は明治11年4月になって、旧会津藩士75名の有志によって建立されたが、碑面には「戦死墓」の三文字以外表示することが許されなかった。
財団法人会津弔霊義会

 二つの寺を回り、戊辰戦争後のこういった取り扱いが、戦争それ自体の残忍さと共に、長州への怨念へとつながっているのだと実感する。そして、そのことを案内板に残す努力が継続されている間は、会津の「先の戦争」という概念は、戊辰戦争ということであり、怨念の継続を意味する。
これは、ここ会津だけではない。自分で確かめただけでも、母成峠・白沢村・大玉村・二本松市・日本柳宿等の戦場跡に残る。政府の命令にもかかわらず、その地の村人が東軍の遺骸をそっと埋葬したことの語り継ぎは、今も生きている。



 昨年の「今日の記事」
「雨どいの利用」

  自分でも、雨水を利用して植物への水遣りをしている。それで、雨水を利用しようとしているものに目がいく。最近、楽しみながら池の水の循環に雨水を利用しようとする試みにかかわっている。いつになったらサイクルが閉じるか分らないというのんびりした試みだ。
by shingen1948 | 2007-09-30 04:10 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)