地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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湯町建設と高湯温泉

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庭坂の湯町を探索したことがあったが、この時、そのことが高湯温泉に与えた影響については考えなかった。この時の探索は、新聞記事をなぞったものだった。そのことを、「庭坂湯町~湯元から離れた歓楽街形成の試み跡」として書いた。

  その湯町を形成する動機は、新聞記事の通り、万世大路開通によってさびれた庭坂に、宿場町として賑わいを取り戻すためと思っていた。しかし、官舎がここに整備されていることなどを考えると、それだけの動機ではないということは推定すべきだったと今は思う。
  この官舎跡も探索して、「庭坂(米沢街道の宿場町)の官舎を訪ねて」にまとめた。

  その時の記事から湯町の沿革概要を整理する。
明治14年万世大路完成
明治17年三島県令の許可が降りて、町並みを整える。官舎整備
明治18年5月から引き湯工事、10月完成、祝賀会
明治29年引き湯権売却、官舎払い下げ
明治31年引き湯停止
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  この庭坂の湯町建設について、「高湯温泉四百年史」は、高湯温泉の立場を訴えていた。
 
  湯町を形成する動機については、三島県令の都合と見ている。
  三島県令が、郡長に命じて、歓楽街を作ったのは、中央のお歴々をもてなし、それによって政治家としての地位を揺ぎないものとするためだとする。

官舎がこの湯町周辺に整備されていることなどを考えると、庭坂村の都合ではなく、三島県令の都合との考えに説得力がある。

歓楽街建設と高湯温泉とのかかわりについて、詳しく解説しているが、概略をまとめると次のことのようだ。
  高湯温泉の宿屋総てを引き払い、湯町に移動させるという計画だったということ。
湯元は、温度が高い高湯温泉の滝の湯に、湯花沢温泉の温度も高く湯量の多い三番温泉を混入して湯町温泉の源泉にしたこと。

式典や賑わいの状況も詳しい。
式典は、庭坂新道の開通式典と併せて行なわれたこと。
黒田清輝内閣顧問や奈良原日本鉄道社長も臨席したこと。
明治20年の時点で、湯町は、58戸であったこと、貸し座敷3であったこと。
  21年には、庭坂駐在ができたこと。

村全体にかかわる影響についても、町村合併への影響として言及している。
明治4年に統合された在庭坂が、引き湯負担金に泣かされるのが嫌で、明治19年に1000円の引き湯工事拠出の妥協案で、分離したこと。
高湯は、庭坂に属しながら、高湯温泉の湯守の故郷である二子塚村と在庭坂村が合併してできた庭柄村に親近感を持っていたこと。
高湯温泉の復興は、明治31年引き湯停止によるとのことで、現在の高湯温泉の原型が形成されたのは、明治33年時点とのこと。その時の原型は、元湯が安達屋・吾妻屋・信夫屋・吉田屋、それに、たまご湯で、それぞれ100人収容施設を誇るようになっていたとのこと。

  探索の感受性が衰えてた分を、資料で補う。少なくとも、湯町探索の時、感受性を研ぎ澄ませば、少なくとも高湯温泉への影響があったことぐらいは感じられたはずと思う。



昨年の「今日の記事」
無用の用
  「ゆとり」とか、「無駄」とかという概念は、最近は許さない世相がある。「効率」優先の世相は、経済界の影響をまともに受けた政治の世界でも、絶対で犯すべからずの領域になっている。これについていけない者は、つまはじきになる。

 こういった無駄な空間は、本当に役立たないのかと思いを込めているが、外目には鬱憤を晴らしているだけと映るだろうか。権限を持たない者の僻みと映るだろうか。
by shingen1948 | 2007-09-25 05:06 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)