地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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高湯温泉と土湯温泉①

 高湯温泉400年史を購入した。高湯温泉の記述であるとともに、自分が探索してきたことを保管できる部分がいくつかあったのが、買おうと思ったきっかけだ。その一つに、土湯温泉の探索を補完できる部分がある。そのいくつかを確認していく。

 まずは、幕領の代官供養は、どちらの温泉にも建立されているという。
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  土湯温泉の探索では、そのことについては、「土湯の太子堂に行ってみて③」でふれた。
 そこで、代官の石碑については以下のように紹介した。
 
一番東側にあるのは、幕領福島・伊達岡村陣屋代官池田新兵衛の碑(1707)だ。これは、温泉宿が困らないように年貢の取り方を変えたので人々がそれを讃えて墓を作ったという。
 次の石碑は、幕領大森陣屋の代官鈴木兵十郎の碑(1738)だ。これは、温泉が寂れないようにしてくれたというので人々がそれを讃えて墓を作ったとという。

 「高湯温泉400年史」によると、同じ趣旨の石碑は、高湯温泉にもあるという。その建てられた理由や経緯について詳しく紹介されている。恐らく、土湯に建てられた理由も同じであろうと推定される。湯役銭がつくられ、最終的には50両の多額に及んだ経緯を説明した後、以下の記述がある。建立した心情がよく伝わる。
池田新兵衛は、幕府の了解を得た上で、湯役銭を廃止し、先に納めた50両も還付して高湯道の改修にあてたばかりでなく、名主組頭に配分しました。検知が早速その年の内に行われ、大幅な減免措置がとられたのです。
 高湯温泉は、この時を境にして、三人が湯守りとなり、共同経営となりました。当時は小屋が3から4棟あっただけでしたが、改築をしたことで、湯治客も大幅に増加しました。
新兵衛のおかげで、高湯温泉はようやく一息をつくことができましたから、五左衛門ら三人は、安達屋近くの薬師堂境内に、代官池田新兵衛供養碑を建立し、その功徳を永久にとどめることになったのです。

 安達屋は「あったか湯」の向かいの旅館だ。そこの薬師堂には、まだ行っていない。機会があればこの代官の碑も確認してみたいと思う。 

 なお、元禄15年(1702)に、板倉重寛が、福島三万石の藩主になっているのだから、この時代は、土湯も、高湯も、福島藩とはかかわり無く、幕領であったということになる。




昨年の「今日の記事」
「橋のない川」ではなくて「川のない橋」

川の道筋を変えて川は無くなったが、橋が残っている景色を発見した写真を紹介していた。
俺はいいものをみつけたのだと興奮している自分がいる。歩いてみなければ発見することができない。
程度は違うのに、赤瀬川氏の路上観察と同じと興奮だと勝手に決め込んだ自己満足。散歩の楽しさを発見しだした頃の気分を思い出す。
by shingen1948 | 2007-09-22 04:13 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)