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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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土湯の太子堂へ行ってみて③

  太子堂のある地は、この土湯村の沿革を記録として留めている。

入り口の階段脇にある石碑などについては、先に書いたが、開村や、天明7年(1787)鳥谷山(油畑)の山崩れのことが、供養塔という形で記録されていた。嘉永3年(1850)興徳寺本堂火災は、焼け跡という形であった。
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  今は使われなくなった旧階段を登った右手、それは、太子堂の北側になるのだが、ここは、太子堂よりも先の歴史も記録されている。その記録は、石塔群という形をとる。何かがあるたびに石に刻んで記録を残したのだろう。ここは、歴史書だ。
 
 最初に大きな石碑が二つ並ぶ。これは、福島代官の墓とのことで、説明板が設置されている。村人の優遇税に対する感謝の気持ちと尊敬の気持ちを込めて建てられたという。どちらも温泉に係わることであり、温泉の経営がこの村人の生計に大きく係わっていたことが想像される。
 次からの石碑群は、その場で読み取ることはできなかった。資料で確認したことだ。その場で確認できたことも、後で確認したことも混ぜて、続けて羅列すると地史になる。

 一番東側にあるのは、幕領福島・伊達岡村陣屋代官池田新兵衛の碑(1707)だ。これは、温泉宿が困らないように年貢の取り方を変えたので人々がそれを讃えて墓を作ったという。
 次の石碑は、幕領大森陣屋の代官鈴木兵十郎の碑(1738)だ。これは、温泉が寂れないようにしてくれたというので人々がそれを讃えて墓を作ったとという。
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 それから、二つの南無阿弥陀仏(1727)碑に挟まれて、地蔵(1745)がある。次に、1726年に太子堂を造った記念碑が建っている。その隣は、1754年の橋供養碑と稲荷だ。これは、荒川に架かる橋の架け替えだろうか。老朽化に伴うものか、洪水に伴うものかは分らない。それから、1698年に杉の苗を千株植えた記念碑が続き、その後庚申塚が続く。
by shingen1948 | 2007-09-14 04:26 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)