地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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豊田町周辺の賑わいの跡

「おくのほそ道を歩く」では、福島の宿が、芭蕉がいうように、宿キレイ也だったのは次の二つの理由をあげている。

一つは、信達地方の養蚕を背景に蚕物を扱う店が増え、その商談のため全国から人が集まって賑わったこと。
 更に、寛文11年(1671)に阿武隈川を利用して太平洋を南下する福島から江戸までの廻米ルートが河村瑞賢によって開発されたこと。御倉町に倉庫が建ち並び、物資の集荷場として栄えたこと。
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  しかし、豊田町周辺は、もう一つ別の理由で賑わっていた。
  現在国道四号線のバイパスになっているところは、この幅で、迫駒(せりこま)馬場が現在のバイパスの道路幅で南北150間にわたってあったという。道路のために広げたということではないようなのだ。
本庄繁長が、馬乗り場として造成し、ここで馬のせりが行なわれていたということだ。この馬せりのために賑わっていたらしいのだ。
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  この名残としては、町名がある。豊田町周辺は、旧馬喰町という名称であったという。半沢氏のメモには、田町→馬苦労町(博労)→豊田町(明治5年より)とある。
馬頭観音も名残の一つだ。ここが、そのまま国道4号線バイパスになるために、移転させられた。この馬頭観音堂は、この馬場の北側にあったものとのことだ。
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  なお、牛馬の水飲み場や道祖神などの古碑群もここに移転されてきた。









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ここに太子堂もあるが、これは明治時代にここに建てられたとのことだ。
  経緯を整理すると、慶長5年ごろ、ここに広い馬場ができ、その北側に、馬頭観世音菩薩を安置した。明治に入って、現在地に太子堂ができた。昭和に入って、この広い馬場をつかって国道バイバスを造ることになり、太子堂の所に、馬頭観世音菩薩等を移転した。
 この賑わいのために、近くに料理屋ができたり、宿が出来たり、芝居小屋が出来たりしたらしい。それが、金沢屋であり、客自軒であり、浅草屋であったということらしい。この辺りは、福島の大火でも焼けることなく残り、近年になって近代化の波によって、面影が消えていったということのようである。



 案内板にある「馬頭観世音の由来」について案内板が建っている。
 馬頭観世音の由来
 慶長3年(1598)1月、上杉景勝越後春日山より会津若松へ国替え、会津4郡、仙道(中通り)7郡、出羽国3郡、佐渡国120万石を領知、信夫伊達地方は、上杉の支配下に組み入れられ、同年2月、水原常陸介親憲福島城代となる。
 慶長5年春、親憲猪苗代城代移封され、森山城代本庄越前守繁長が福島城代となりこの地を治む。時に豊臣秀吉の死(慶長3年8月)後、天下は風雲ただならず、伊達政宗の再度の侵冠(松川合戦、慶長5年10月)に備え、繁長兵馬教練のため、当堂の周辺南北115間(約230m)に馬場を設け、その北隅に堂一宇を建立、馬頭観世音菩薩を安置して、領民の安泰並びに馬匹の護り、五穀豊穣を祈願したと伝えられる。
 当観世音は、信達坂東33観世音第3番札所としても広く知られ、境内には素人角力、盆踊りなど奉納されて、広い境内は参詣人で賑わい数多くの信仰者を集めた。
 なお、現在のお堂は、元禄年間(年月日不詳)火災により焼失後再建されたものと伝えられ、さらに昭和37年新四号国道建設により約100㍍南の現在地に移転したものである。
昭和51年 8月

曹洞宗 馬頭山 観音寺
by shingen1948 | 2007-09-08 04:12 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)