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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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鉤型(かぎがた)の道路の改修

甚平衛火災で、福島はリセットされた状態になり、それ以前の面影を残すものはなくなったことを先に書いた。
  面影を消し去ることで、今の時代に合わせることができたこともある。城下町特有の鉤型(かぎがた)の道路を滑らかなカーブに改修したことだ。
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信夫橋を渡って、江戸口の枡形を通って、奥州街道を北に進む。常光寺寺前道を過ぎると、右に折れ、直ぐに又北進するという城下町特有の鉤型の通路があった。ここに番屋があったという。
  この鉤型通路のあった位置の目印が、この床屋さんだ。よく観ると、鉤型の道路の食い込みが、カーブになったため、土地が広がって間延びした感じになっている。

現在のゆるいカーブに改修したのは三島県令で、明治14年の甚平衛の火災後だ。
強引に権力をかざして有無を言わさず推し進める力と、火災によって何もかも無くなってしまったという本来ならマイナスと思われる二つの力が合わさって、改修の力になったということである。
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  この時、表川(町用水)も東側に側溝として移転されたとのことだ。その町用水の姿はその時消えたが、その用水から放水路として荒川に延びる水路は、当時のままの姿を残している。先に、甚平衛火災の時に記事にした宅宝院という寺の北側を通っている。その水路は東裏通りに突き当り、その東側をやや南下し、墓地の南側を通って現在の阿武隈川に延びている。
この位置は、昔は荒川の河床であったのが、阿武隈が侵食して阿武隈河畔になったという。阿武隈川は現在より、もっと渡利寄りだったということのようである。
by shingen1948 | 2007-09-07 05:26 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)