地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫橋

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  半沢氏のフィールドワーク地図によれば、みどり湯の位置の手前が、第一代信夫橋の板置き場小屋跡だという。その西は、今は学校になっているが、以前は川原だったとのことだ。

信夫橋は、奥州街道の福島宿の玄関口だ。
  「おくのほそ道を歩く」には、次のように説明されている。
  まず荒川橋(大森川)を渡ると、次いで信夫橋がこんもり高く見えてきた。
今では信夫橋で渡る荒川も、かつては川人足などに川越賃を払って渡っていたようである。

芭蕉の歩いていた当時かどうかは分からないが、対岸まで木橋が架設されるのは、明治7年で、それまでは、浅瀬に板を渡して通称ガンタラ橋といわれていたはずだ。この橋は、水が増えるとその板を外して、小屋にしまったということだと思っている。その外した板を置いた小屋が、写真の位置ということだと思っている。
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川越賃を取ったかどうかは不明だが、「川人足などに」というと、橋ではないイメージになる。自分の記憶違いなのかもしれないと思えてくる。
ただ、特別展「福島城のころ」実行委員会・福島市・福島教育委員会が、2002年10月に建てた「江戸口」の案内板には、文久時代福島信夫橋として、江戸時代の枡形と板橋の信夫橋が描かれている。

年代の違いの考察が足りないのかもしれない。確認しておくべきなのかなとも思う。



  特別展「福島城のころ」実行委員会・福島市・福島教育委員会が、2002.10に建てた「江戸口」の案内板の説明

大村家蔵
「ここからが昔の「福島」でした。今よりもとても小さいまちでした。」(第三小学校6年瀬戸希美)
江戸時代、須川(現荒川)を渡ると枡形がありました。空き地を四方に低い土手をめぐらしたもので、土手の一角には常夜灯として石灯籠が立てられ、夜間は戸を閉めました。

by shingen1948 | 2007-09-05 04:16 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)