茂庭公墓所を訪ねる
2007年 09月 03日

先週の日曜日に「もにわの湯」に行った帰りに、茂庭公の墓も訪ねた。この茂庭は、伊達政宗の家来で有名な茂庭公の先祖にあたる方の故郷だ。
案内によれば、ここが、初代二代の墓地があった所であるという。確かに墓自体は、自分の記憶のままなのだが、建っている所が自分の記憶と違っている。記憶では平地のはずなのに、 ここは高台なのだ。数十年前の記憶である。記憶違いなのだろうか。
記憶では、滝野の部落から中茂庭に向かっていくと、2軒の畑中商店があったはずだ。その一軒が滑滝のキャンプ場の管理をしている店だったはずである。そこから、先に進むと、左手の滑滝側に、一軒人家があって、これも確か畑中さんだったはずだ。そこを過ぎると、右手に酒屋があったはずだ。左手の低地になった所にも畑中さんがあったはずだ。
そして、そこから数件人家があって、やがて道路は、右に切れるカーブになる。そこで人家が切れるはず。しばらく右手の山を回りこんでいくと、道路の右側の道路と山に挟まれた平地に、初代と二代の墓地があったという記憶なのだ。
初代と二代の墓は移動してないはずなのに、かなりの高台になっている所だ。自分の記憶と一致していない理由は分からない。
書かれた縁起と記憶は合っているようだ。後で記憶のほうを整理してみることにする。

茂庭公墓所縁起
初代、2代の墓所である現在地は、建久(1190)の昔、東原寺という寺のあった所で、初代、2代茂庭公が大枝舘(現在地より北西四粁「4km」先)にて亡くなられ現墓所に埋葬されたという。東原寺は茂庭家11代鬼庭良直公が伊達家に仕え天文年間に茂庭から米沢の羽州永井庄川井邑に移られた時菩提寺としてこの寺も移され東原寺は廃寺になったという。
(茂庭13代記)
現在も米沢市川井には天文13年(1544)に左月斉良直公が創建されたという寺、桃源院がある。

3代から10代までの墓所は(現在地より北西6㎞先)茂庭家居所小屋舘の隣接地に六代右京利元公が先祖の霊や南北朝戦いで亡くなった多くの霊を弔うため建立されたという平成8年6月
地蔵堂(延命地蔵)の境内にあった無銘なる古碑は茂庭家の墓碑なりと村の古事をよく知る獅々内の畑中五郎左エ門という翁が発起人となり天明3年(1773)に切石の柵を回し整備されたという6代から10代までの墓所(茂庭13代記)に茂庭公の遺徳を偲び昭和43年4月飯坂町史跡保存会において茂庭家5代までの居所である大枝舘に埋葬されてあった3、4代の墓碑を移すとともに墓地不明である五代実元公の墓碑をも建立整備古里の文化財として維持管理してきたところ摺上川ダム建設に伴い移転を余儀なくされ平成6年10月現在地に改葬したものである。
茂庭公頌徳会

かつて茂庭に住んでいた者です。実家はダムの底になりました。
福島に関するブログを検索していてこちらのブログにたどり着きました。2年以上も前の記事ですので、コメントするのは迷ったのですが・・・。
茂庭公初代・2代の墓所は今と同じ小泉地区の同じ場所にあるのですが、以前の道路からはゆるゆると坂を登って行きました。
以前の道路と墓所の間に新しく道路がまっすぐに付け替えられたので、その部分が切り通しのようになり、墓所が高台のように感じられるのだと思います。
ちなみに、3代から14代までの墓所は梨平地区の手前、獅子内というところにありましたが、ダム水没に伴い、これらも全て初代の墓所と同じ場所に移されました。
ダムができる前、茂庭には地区住民有志で作られた「茂庭歴史保存会」というのがあり、茂庭氏が伊達政宗に伴って移り住んだ宮城県志田郡松山町(現・大崎市松山)の茂庭家ゆかりの方々(家老職など家臣の子孫の方々)との交流は現在も続いており、毎年7月第2土日に催される中茂庭の白鳥神社祭礼にも、必ず松山茂庭家ゆかりの方々がおいでになり、玉串奉奠にも参列なさって下さいます。
新しい道路と旧道の関係が把握できないので混乱してるんですね。
お邪魔していた当時の自分としては、いっぱい散策したつもりだったのですが、今思うと、もっと歩っておけばよかったなという思いもあります。
本宮の「人取り橋の戦い」の地に茂庭公の墓があったり、地名が残っていることなどに触れると、そのたびに懐かしさのつながりのようなものを感じたりしていました。
ここに住んでいた人には及ばないでしょうが、訪ねた時に懐かしいな思う気持ちは強いです。
軌道到着地の西側の建物でしょうか。
それを描いた地図は見たことがありません。
宜しければ見せて頂けませんでしょうか。
建物の位置を図示しましたので、名前をクリックしてください。
何度も歩ってイメージをつかもうとしています。
まだ、途中ですが、明日、整理してみます。
なお、策動軌跡をみた地図は、飯坂温泉史を紹介した「福島市史業書」の付録になっている飯坂温泉付近地図です。
