福島の歴史的風景リセット:甚兵衛火事
2007年 09月 01日
この火災は、1881(明治14年)4月25日に発生し、信夫橋のふもとから新町付近まで約1800戸を焼き尽くしたという。ということは、信夫橋から、信夫山の側までの範囲だから、旧市内の東側を除いてほぼ全域が焼き尽くされてしまったということになる。福島の風景は、明治14年の時点で、ほとんどリセットされた状態になったということだ。
火元は、柳町の風呂屋みどり湯で、風呂屋の主人が二階堂甚兵衛という方だったので、これを甚兵衛火事と呼んでいる。
半沢氏のフィールドワーク地図によると、その火元のみどり湯の位置は、信夫橋を渡って直ぐの奥州街道との西裏通りの中間あたりとのとだ。ここから北側の福島を焼き尽くしていったという。
探索してみると、火災というものは、全てを無にすることであって、その火災の痕跡すら残らないということがよく分かる。
そんな中にあって、火災の痕跡を残すものとして、宅宝院の脇にある金剛山碑が地域を探索する人には有名である。この碑は、「甚兵衛火事」の熱で石の色が変ってしまったといわれている。
宅宝院は、半沢氏のメモによると、慶長7年(1602年)川俣より還座とのことで、この金剛山碑は、文久2年(1862)の講中28名とのことだ。
火災の痕跡そのものではないが、火事の恐ろしさを身にしみて感じた人々の防火の意識を現すものが多いのも、火災の痕跡としてとらえてよいのかも知れない。
信夫橋の東側に柳稲荷があるが、その脇には荒川洪水を物語る柳稲荷縁起の碑がある。 その脇に、明治31年古峯講記念碑(柳町大火)を建立している。
街ができると、愛宕、古峯、秋葉神社など、火伏せの神社や講を起こすことは一般的だったはずだ。
しかし、この地域は、本来はこの荒川の暴れ具合が、天災の最大級のものであり、それから街を守ることが大切だったはずである。そこに、柳町大火の記念碑としての古峯講が並列に建立されていることに、並々ならぬ念の強さを感じるのだ。
※古峯神社について
古峯神社(古峰神社)は、防火の民間信仰である。
その起源は,日本武尊が相模で野火に囲まれた時,奇策を用いて火を鎮め,逆に敵を皆殺しにしたことによるのであろう。全国各地に古峯講中が組織されて篤い崇敬を集め,今でも全国から行者が集まるという。
講中の人によってそれぞれの郷里に「古峯神社」の社殿が建てられたり,既存の神社の境内を借りて石塔が設けられたりしている。