「浅草屋宇一郎の後悔」について再考する
2007年 08月 28日
日曜日に福島市内を散策した時、世良修三の墓は囲む柵の鍵は開けられていた。誰かがきちんと管理している。
先に、世良を暗殺したことを浅草屋宇一郎は後悔し、世良の位牌を大切にしていたということについて考えた。その時は、河野広中を中心とした自由民権運動の人々との付き合いの影響と見ていた。
しかし、風雲・ふくしまの民権壮士を読んで、修正したほうがいいと思った。
もちろん、世良の使命を理解できなかったことへの後悔という説はとらないのは変わりない。
修正したほうがいいかもしれないと思ったのは、次の事実が書かれている部分だ。
民権壮士というほどの派手な人物ではないが、福島では、井上康五郎も若松に護送されている。彼の釈放に関して、浅草宇一郎の名前が登場している。
井上康五郎が、16年1月に若松で釈放になることになった時、福島署は、検事に宛てて釈放反対の申し入れをしたのだが、翌日には、至急免訴の執行相成度と反対の申し入れをしたという。その警察が至急免訴の願いをすることになった背景が、康五郎の義父浅草宇一郎の嘆願書によるということのようなのだ。
その嘆願書の中に、自由党などに決して加入いたさざるよう堅く教訓を加へとある。自由民権運動を必ずしも肯定していないことが分かる。しかも、 高橋氏は、十手持ちの侠客による「もらい下げ」の見解を示している。
フィールドワーク地図の半沢光夫氏も彼を「旅籠と十手持ち」の二つの仕事と紹介していたのだが、そこを充分読みこなしていなかった。
三島県令は、藩閥政府から自由党弾圧につかわされた。その三島県令は、管理しやすいように、警察署長の大部分を忠誠心の熱い薩摩県人で固めていた。そして、自由民権弾圧が始まるのだが、十手持ちは、その警察のための仕事である。
浅草宇一郎は、藩閥政府による職を得ていたのだ。そして、世良は、その藩閥政府をつくる仕事をしていた。その世良を暗殺する仕事をしてしまっていた自分との自己矛盾を感じたと考えるのが自然だ。だから、世良の位牌を手厚く扱うことになったのだ。
自由民権の影響を受けたのは、子どもたちで、それに手を焼いていたらしいことが想像できる。
半沢氏は、自由民権運動のフィールドワーク地図に、井上康五郎をプロットしていなかった。浅草宇一郎と世良修三の関係について半沢氏は詳しく記載しているのに、遊郭主人の井上康五郎と浅草宇一郎とのかかわりを見落としたのだろうか。
逆に、「風雲・ふくしまの民権壮士」では、浅草宇一郎と世良修三とのかかわりについては言及していない。
二つの資料を照らし合わせることで、想像が少し深まったと自己満足する。そして、とりあえず、半沢氏の「自由民権フィールドワーク」のページの現在の明治病院に井上康五郎をプロットする。遊郭は浅草屋であろうとの推定だ。