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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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8月の忘れ物③:十六橋を訪ねる

  今年の夏は、死者との語らい、その中でも特に、被爆に関することを考えた。その分、その他の事について書き落としているものの中から適当に選んで記録しておくことにする。
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  8月9日、会津に行く機会があった。このとき、十六橋に立ち寄った。戊辰戦争で会津へ入るのを防ぐ関門の役割をになうべきだったはずだという思いのところの確認だ。
  母成を越えた西軍が、この十六橋を突破して、会津へ入ってきたという場面を思う。

  ここにたどり着く前の様子を確かめておくため、半沢氏のフィールドワーク地図「母成峠に戦禍の跡をたずねて」のうち、戊辰戦争の関わりのメモを拾っておく。
 慶応4年(1868)旧8月21日(太陽暦10月6日)戊辰戦争、西軍(薩、長、土、大垣、大村、左土原の各藩兵200人)三春藩の河野広中の先導で母(保)成峠の会津軍(旧幕府歩兵奉行大鳥圭介、旧新撰組残党土方歳蔵ら200人)と激戦
西軍侵攻、翌22日十六橋を攻略、会津軍、石筵の集落を焼いて退却
※ 石筵住民、西軍の道案内、大鳥圭介の本陣も焼く。

この十六橋とは直接関係ないが、案内が河野広中であり、ここに、板垣退助が大将の一人としているわけだから、彼の人生がプラスに働くのは、これらの行動がもとになっていることが分かる。

  そて、十六橋とのかかわりで、その後の道程に係わるメモを拾う。
旧8月21日の激戦の日、猪苗代の土津神社に火を付け、250戸の民家を焼いて退却、その日、猪苗代城にも放火している。
 板垣退助ら本隊の母成越えの他に、中山峠ルートで西軍の陽動作戦隊400名が進撃している。

 これらの状況の中で、この十六橋を越えるという事実が発生する。
  本来は、この十六橋は、会津軍が撤退した後、落とすべきだったのだが、そうならなかった。西軍はなんなく突入してしまうのだ。
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 政府軍は、ここを渡って、戦陣を整えた22日になって、戸の口原を戦場に戦いが起こる。
 戦略的には一瞬遅れている。会津の悲劇が着目され、見落とされているが、既に上層部は情報収集と決断の遅さを生んでいるのだから、パニック状態であったと推定できる。
 23日には、戸の口堰沿いに撤退した白虎隊が、飯盛山で自害する。
 落城は、9月22日であった。

  なお、半沢氏のメモには、この十六橋についても記録されている。
  天明6年に修造、二十三橋となっている。その後、明治12年安積疎水の制水門として改修十六橋石橋としてよみがえる。大正3年には、橋と水門を分離し、東京電力の前身渋沢栄一らの猪苗代水力電気KKになっている。

by shingen1948 | 2007-08-23 05:45 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)