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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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世良修三暗殺事件の現場を確かめる

 4日(土)に、奥州街道沿いに福島の町中を散策した中から、奥羽越列藩同盟の誕生のきっかけになった世良修三の暗殺事件関係をまとめておくことにする。
 これにかかわっては、飯坂古道を確認する中で、稲荷神社に立ち寄り、その北東にある世良修三の墓について「世良修三の私憤粉砕と奥羽越列藩同盟の誕生」として書いたことがある。

彼は、仙台に奥羽鎮撫総督府が置かれたときの参謀だ。
彼が本軍に宛てた密書を仙台藩の人たちが開ひいみると、そこには『奥羽皆敵』とあったことで、藩士らは、福島で世良を襲撃、阿武隈川の川原で処刑したことに触れた。
  この世良の襲撃と処刑が、東北31藩の結束を固め、奥羽列藩同盟が出来て、薩長の新政府に対抗する事となった。実質的な泥仕合のスタートになったことを書いた。

その出来事は、この福島の奥州街道沿いで起きたできごとである。現地を訪ねて想像を膨らませたことをまとめておく。
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 世良が、宿泊していたのは「金沢屋」であるが、これは福島藩が紹介した宿であるらしい。その宿があったのが、右手の自動車販売会社のあたりらしい。
今は国道4号線のバイパスになっていて、その面影はないが、ここに写る裏の小道は仙台藩の瀬上の宿場であった客自軒に続く道で、昔からあったのではないかと想像する。


 二階に寝ていた世良は、異変に気がついて、逃れようとして二階から飛び降りて動けなくなった。同じ長州藩士の勝見善太郎もまた、二階から飛び降りたところを、仙台藩士らの手によって捕縛されたという。
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  そして、金沢屋の裏手から客自軒へと連れて行かれるのだ。
世良と勝見は「客自軒」の庭に引き出され、そこで尋問を受ける。この「客自軒」は、現在「もみじガレージ」になっているところだ。ここは昔下宿屋をやっていて、何度か泊まったことがあり懐かしい思い出があるところで、想像も容易だ。現在ここにあった建物は、福島民家園に移築されている。

  この時、世良は二階から飛び降りた時に頭を打って重傷だったのではないかといわれている。世良は、仙台藩軍事局の置かれていた長楽寺の裏を流れる阿武隈川の川端に引っ立てられ、そこで勝見と共に首をはねられたという。
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半沢氏がこの辺りとフィールドワーク地図に書き込んだ辺りを写真におさめておく。

斬られた世良の首は、すぐに白石の本営へと送られたが、首を受け取った白石の仙台藩首脳は、世良の首を見るなり、「罪人の首級など見たくもない。子捨川にでも投げ捨てろ」とまで言われたと伝えられているらしい。
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この暗殺に関わったのは、仙台藩士と福島藩士の正式な武士のほかに、浅草宇一郎という目明しが手を貸しているという。浅草宇一郎は仙台藩領大河原の出身で、当時は福島城下で旅籠「浅草屋」を営み、目明しを兼ねていた人物という。この「浅草屋」は、現在の明治病院のあたりだったという。



半沢氏は、長楽寺の門の中にある碑の位置に、『浅草屋宇一郎の墓「目明かし、旅籠主人の二足わらじの親分」明25年頃』とメモしている。
by shingen1948 | 2007-08-07 04:18 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)