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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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四本松城:岩代上長折の古館に迷い込んで

 安達町商工会ホームページ に、「旧安達町」の紹介がある。
 その中に、四本松城(岩代上長折)が出てきて、思い出したことがある。それは、旧岩代町の小浜から旧東和に近道をして抜けようとして、道に迷ってしまった時のことだ。
 途中「四本松城跡」の案内板を見つけたのだ。今は町村合併によって、岩代町教育委員会はない。合併前の案内板だ。所々塗装が剥げていて読めないところがある。○で示した。
四本松城:岩代上長折の古館に迷い込んで_a0087378_5142869.jpg
「四本松城跡」
 ○○(1055)年源の義家の武将、伴次郎助兼が当地方の鎮将となり、治暦元(1065)年○る○氏は文治5(1189)年に亡んだ。
 ○○貞家が、正平元(1346)年当城に居城した。
 ○都宮氏広が応永3年、城を現在の宮森城(上館)の地に移し「四本松城」○○○○が、其斯波詮持、石橋棟義に滅ぼされ、石橋氏が城を当地古舘に移した。8代石橋義久没後、小浜城に居住していた大内定綱は領主石橋氏を追い宮森城に移り住んで塩松(四本松)地方を統治するに及んで四本松城の東安達を統治する城としての機能はなくなった。
岩代町教育委員会
四本松城:岩代上長折の古館に迷い込んで_a0087378_5185296.jpg
 (写真は、四本松古舘である。)
 ここから、舗装工事をしている広い道路に出てほっとして、工事をしている人に、東和に行きたいことを話したら、戻ったほうがいいといわれた。仕方なく戻ると、少し広い道路に出て、家が一軒あったので、そこで「東和に行きたい」と案内を乞うと、「ここも東和だ」という。
「行きたいのは針道だ」といったら、「それなら戻れ」と言われて、また戻った。

 ともかく、どうにか目的地にはたどり着いたのだが、この「古舘の四本松城」に、今たどりつく自信はない。自分にとっては幻の場所だ。



「旧安達町」の紹介:安達町商工会ホームページより[四本松に関わる部分を中心として]
 正平元年(西暦1346年)足利尊氏は、畠山高国吉良貞家を奥州探題として奥州に下向させ、高国は二本松城(塩沢田地が岡)に、貞家は四本松城(岩代上長折)に居を構えた。しかし、正平4年(西暦1349年)中央では、足利尊氏、直義兄弟の不和による観応の擾乱が起きると、畠山氏は尊氏方に、吉良氏は直義方に分かれ両探問題の不和は逐に表面化し、同志討を演ずることとなった。正平6年(西暦1351年)高国は吉良貞家に討たれ、両探題間の争いは貞家の勝利に終わった。その後、三代畠山国詮は父祖の職を継いで再び奥州探題となり、その子満泰に至り白旗が峰に築城、霞ケ城と称した。これが二本松城の起源で、本町の地域は常に二本松城主の支配を受けてきた。

 天正14年(西暦1586年)畠山氏は伊達政宗にほろぼされ、領主は伊達、蒲生、上杉、加藤と変わったが、寛永20年(西暦1643年)丹波光重が10万石の領主として白河から移封され、二本松は城下町として発展した。

by shingen1948 | 2007-07-16 05:30 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)