地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本柳宿で見落としたことを確認する

おおよそ自分の目で確認したので、詳しい方の見方を確かめる。
 半田光夫氏が、「福島発・歴史地図」で二本柳宿を取り扱っている。そのフィールドワーク地図に、この街道の配置を図解説明している。それによると、ここには、二件の問屋があったらしい。東の外れの北、街道の入り口に一件、寺よりの南側に一件あったようだ。

 宿屋は一件で、そのはたご「角屋」は、西はずれの北角にあって、出入り口は北側に西向きにあったようだ。その入り口で、茶屋もしていたのだろうか。街道の家を挟んで北側にある町裏作場道の北側が、馬のつめきり場になっていたらしい。

二本柳宿は、馬継場として町割りされた宿場なので、問屋が特徴的なのだろう。
 問屋の「役前」の図を見ると、畳の部屋を街道側と西側と北側の縁で取り囲んでいる。畳の部屋で、問屋が帳面を見ながら荷物の振り分けをし、馬方は三方の縁にに腰を降ろして言い渡しを聞いたという。その後の馬方の動きは、先日の想像で違わないようだ。
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 寺前にいる火伏地蔵は、子守地蔵と呼ばれ、寛保元年(1741年)町の東側に建立されていたが、旧国道改修(明治15~18)時に寺の境内に移転した。しかし、その後火災が続いたため、「地蔵おろし」をして現在の寺前に移されたという。
 地蔵講は春三月この宿場の最高決議機関とされている。

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 この宿場では、車屋の近くと行屋跡(現遊園地)の街道沿いにあった水車跡、馬の爪切り場、問屋跡、法印跡など見落としていた。また、取揚の牛宿(佐藤分四郎家)も意識して確認できていないことが分かった。
 また、旧街道の坂は砂利道としたが、半田氏によると、石敷きだったとのことだ。



半田光夫氏の「二本柳宿」の解説
 「宿場二本柳」を中心に参考にしたとの断りの後、宿について説明している。

 二本柳は、慶長3年(1598年)に馬継場として町割りが行われた宿場である。各家一戸あたりは、戸口7間、奥行き22間155坪だが、問屋と名主は二戸分を所有していた。
 東西に延びる街道に面して西側に60件の農家が並ぶ。
 明治34年の大火で江戸時代の旧型を留める家屋はほとんどなくなった。街道中央を流れていた町用水(壇の原越・前堀)も昭和48年にU字溝で街道南側に改修されてしまった。

 馬継場とのかかわりでは、「江戸時代の定人馬と問屋」と題して、以下の説明がある。
 天保以前は油井宿と半月ごと交替(油井15日まで)。天保4年(1833)以降は20頭20馬主の定人馬となる。八丁目~杉田までの上り荷の輸送を引き受ける。下り荷は、油井の人馬が運んだ。

by shingen1948 | 2007-07-12 04:24 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)