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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大人の兵隊が白河で戦争をしていたこと

二本松青年会議所の紙芝居では、二本松少年隊が戦場に行くようになった事情を以下のように説明している。
 西軍は、いよいよ二本松のお城へ攻めて来ます。
 けれども、大人の兵隊が白河という所へ行って戦争をしていたため、二本松には女の人や、子供、おばあさんしか残っていませんでした。そこで、残っていた子供達も「二本松少年隊」として戦争に行くことになったのです。家では戦いの私宅で大忙しです。子供が着る戦争の着物などありませんから、お父さんの着物を短く切ったりして、お母さんが一生懸命作りました。

「この大人の兵隊が白河という所へ行って戦争をしている」ことにかかわる事情について、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」で確認する。街道をゆく33「白河・会津のみち」の「白河の関」の項で、関としての役割の変化を解説している。戊辰戦争時代の白河の関の役割を確認する。
江戸初期に仙台の政宗が死に、白河から丹羽家が他へ転じたあとは、白河は要所でなくなった。幕府にとって奥州はただの山河になった。

江戸に近距離なため、参勤交代の費用が安くなる。丹羽家の後は、没理想的な藩主達が続いた。藩主が転々とかわり、幕末の慶応二年(戊辰戦争2年前)に最期の藩主阿部氏が棚倉に転封になる。そして、程なく幕府が瓦解し、空き城となり白河城は隣の二本松藩あずかりとなる。

  だから、二本松の主力部隊は、白河にいたのだと合点がいく。

白河口の戦いについては、「東西戦争」の項で、以下のように捉えている。

それまでの日本戦史の上から見ても、屈指の激戦だったといえる。
会津兵はもっともよく戦い、指揮官の若年寄横山主悦は、銃弾によって戦死した。
更には、仙台のカラス組といわれた遊撃隊もよく戦った。仙台藩士細谷十太夫がひきいた庶民部隊で、全員が黒装束をし、銃を用いず、白兵による夜襲を得意とした。兵の多くは博徒だった。棚倉藩の十六人組というのも、異様だった。十六人が決死の血盟をし、戦国時代そのままの甲冑に身を固め、槍と弓矢で戦った。
これに対し、薩長は、圧倒的な火力で対向し、結局は勝った。

by shingen1948 | 2007-07-04 21:21 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)