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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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上方の風の人から陸奥のみちについての平安の詩的気分を学ぶ

司馬遼太郎の「街道をゆく」は、興味を持ちながらも、なかなか手にすることはなかった。それは、もしこれを読んでしまったら、それに意識が縛られてしまうような気がしたからだ。

先日、古本屋でこの本をみつけ、つい手にしてしまった。いくつかある中から、二冊選んで購入した。街道をゆく③「陸奥のみち、肥薩のみちほか」街道をゆく33「白河・会津のみち、赤坂散歩」である。
期待したのは、「会津への道」の「伊達政宗」と「戊辰戦争」の散策を深めることであった。

しかし、実際に手にしてみると、別の観点からも参考になることが多そうだ。
変わった読み方かもしれないが、まずは、司馬遼太郎氏の「風の人」としての自分の位置のおき方である。そこには、優しい東北への目があった。

街道をゆく③「陸奥のみち、肥薩のみちほか」の冒頭では、以下のように述べている。
奥州というと、私のように先祖代々上方だけを通婚圏や居住権としてきた人間にとっては、その地名のひびきを聞くだけでも心のどこかに憧憬のおもいが灯る。

街道をゆく33「白河・会津のみち、赤坂散歩」の冒頭では、奥州こがれの記として、平安貴族の陸奥ブームを説明する。
  そして、平安朝の貴族文人が、奥州~みちのおく・陸奥・おく~に対していかにあこがれたかを理解せねば、かれらの詩的気分が十分にわかったとはいえないと結ぶ。
  具体的に、次のイメージについての説明があり、松尾芭蕉が歩く奥の細道の心情を思い描くことができる。
宮城野・名取川に込められるイメージについて、連想の展開を具体的に示す。そして、信夫に込められるイメージを以下のように説明する。
  千々にみだれる恋の心・乱れ模様の絹布・都では、信夫捩摺(忍摺)と呼ばれていた。
  源融は上記のことを詩的レベルに高めた経緯も説明し、以下の歌にその集約を見る。

 陸奥のしのぶもぢつり誰ゆえに乱れんと思ふわれならなくも(古今和歌集「恋歌」4)

  そして、みちのくのしのぶときけば、ここまで連想が展開しなければ、本物の教養人ではないという伝統を受継いだのが芭蕉だとのこと。芭蕉は、平安朝の詞華史につらなる末裔の人とのことだ。

ちなみに、郡山の平安人のイメージは、安積の沼であったという。特に、その水辺に咲く花菖蒲に似た花を花かつみとよんで珍重したが、都人は花の実物を知らずにイメージの美しさを愛していたのだと。だから、芭蕉は次のように描いたというのだ。

  沼を尋ね、人に問ひ、「かつみかつみ」と尋ね歩きて、日は山の端にかかりぬ。
明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く
仙台に入るときも、単に仙台にはいるのではなく、「名取り川を渡って」と冠を付けることに注目する。
 陸奥にありといふなる名取川なき名とりては苦しかりけり(壬生忠岑「恋歌」三)

  今まで、奥の細道として散策した所を思い返して楽しみなおすことができる。
by shingen1948 | 2007-07-03 20:38 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)