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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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白旗ヶ峰の畠山と対峙する大原山の伊達政宗

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旧陣場の道標に、以下のような説明が彫られていた。

天正13年(1585年)栗の巣合戦で敗れた畠山氏は白旗ヶ峰山頂(現霞城公園頂上)に居城していたが、政宗はこれを攻撃するため、この地、大原山(現愛宕山)に陣営を構えたことが陣場という名前の由来とのことだ。
愛宕山は、戊辰戦争とのかかわりで何度か付近を散策した。それが、突然伊達政宗の時代の説明に出会ってしまったということだ。この時代なら、ここからみつめる城は、中世の二本松城である。

 霞ケ城は、奥州街道白旗ヶ峰山頂に築かれた「中世の山城」と、丹羽光重が築いた山麓の「近世城郭」からなるのだが、戊辰戦争でこの城を見るときには、後者の「近世城郭」からなる城を想像する事になる。ところが、旧陣場跡ということなら、畠山氏と伊達氏の対立であり、奥州街道白旗ヶ峰山頂に築かれた「中世の山城」を想像することになる。
伊達政宗は、ここ愛宕山に本陣を置いて、執拗な攻撃をしむけていたのだ。
 これに関わる霞ケ城の沿革を確認しておく。
霞ケ城沿革
1394~1427年 奥州探題の畠山満泰が、山頂に居館を構える。140年にわたって畠山氏9代の居城となる。
1585年 伊達政宗の父輝宗が二本松城畠山義継に拉致されかけた時、政宗は父もろとも義継を射殺す。(粟の巣合戦)1586年 伊達政宗の執拗な攻撃を受けて落城、城主義綱は開城して会津にさった。
畠山氏滅亡後、伊達成実が大森城から移り城主となる。
1590年 豊臣秀吉の奥州仕置により会津の蒲生氏郷の属城となり、石垣が積まれるなどして近世城郭として整備される。その後、上杉、蒲生、加藤氏の会津入封に伴い城代が置かれる。
by shingen1948 | 2007-07-02 20:00 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)