地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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世良修三の私憤粉砕と奥羽越列藩同盟の誕生

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  戊辰戦争のスポットライトは、会津で強くあたり、安達地区ではその悲劇にたどり着く道が見える。福島地区では、それほど戊辰戦争についての意識は強くない。ただ、この悲劇を生んだ主人公は、福島市の稲荷神社の裏手にひっそりと祀られている。よく手入れされ整備されているが、金網でしっかり囲まれてガードされている。

この墓に眠るのは、世良修三だ。倒幕軍が来る前に、仙台に奥羽鎮撫総督府が置かれ、東北地方を全部従えようとしたのだが、彼はその参謀であった。大将は、九条道孝という朝廷の人だが、この人は指揮をとる力はなく、彼が指揮をとる。

仙台に着くと直ぐに、仙台藩に会津や庄内藩の征伐を命じる。明らかに庄内藩の征伐は倒幕の名目にならない。戊辰戦争が、正義に名を借りた薩長連合の遺恨の戦いだとする象徴的なことと思われる。恐らく彰義隊とのかかわりであろうと推測される。

また、会津藩は、奥羽鎮撫総督府に、初めから朝廷のために力をささげてきたのであり、新政府に逆らうつもりはないとして、仙台藩や米沢藩もあやまりの許しをこう手紙を書いたが、世良修三によって握りつぶされていた。それどころか、仙台藩が、奥羽鎮撫参謀の世良修三が本軍に宛てた密書を開くと、そこには『奥羽皆敵』とあった。
藩士らは、福島で世良を襲撃、阿武隈川の川原で処刑した。

  この世良の襲撃と処刑が、奥羽鎮撫参謀の世良修三の私憤を粉砕し、東北31藩の結束を固め、奥羽列藩同盟が出来て、薩長の新政府に対抗する事となった。実質的な泥仕合のスタートは、ここで切られたといっていい。

仙台領白石で奥羽列藩会議が開かれ、同盟が結成されるが、実際の戊辰戦争で政府軍と本気で戦ったのは、会津、庄内、長岡、二本松、仙台藩という。そのうちの討幕軍が二本松の戦いから、会津へ向かうあたりを「会津への道(戊辰前後)」としてまとめてきたということになる。
by shingen1948 | 2007-06-27 05:00 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)