地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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小沢幾弥戦死と供中口の戦いの関連

  霞城落城の日である29日の最初の西軍の攻撃は、午前7時ごろの供中口(ぐちゅうぐち)の戦いだ。ところが、この戦場は、簡単に落ちる。その理由は、以下のようなことであった。

  三浦権太夫義彰は、信念的には、勤王だが、東軍として西軍と戦わなければならない立場だった。それで、戦いを挑むのだが、相手に被害が及ばぬように鏃を抜いて弓を引き、農兵をさっさと退去させて、自分だけ自害した。

 このことは、時代が過ぎて、西軍の時代になったので、勲章を頂くことになる。しかし、この日に、この後ろの通称「愛宕山」で守備についていた東軍の兵士にとっては裏切りでしかないといったら言い過ぎだろうか。この話は、二本松少年隊の次の話に結びつくのだ。
  二本松青年会議所の紙芝居では、次のように描かれている場面である。
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  小沢幾弥という少年は、戦いで戦いで死んでしまった朝河 八太夫という先生をかついで、お城へ向かって歩いていましたが、自分も怪我をしていたので途中で疲れてしまい、目も見えなくなって、一歩も歩けなくなってなってしまいました。仕方なく、手で穴を掘り、先生をそこへ埋めました。そこへ西軍の大将が通りかかり、まだ子供なのを見て可哀想に思い、「しっかりしろ。」と声をかけました。すると幾弥は、「もう助からないから首を斬って下さい。」と頼みました。「言い残すことはないか。」 「家の人に会ったら、幾弥は一生懸命戦ったと言って下さい。」 「よし、必ず伝えるぞ。」そう言って西軍の大将は幾弥を安心させると、願いをかなえてやりました。

 幾弥は、武衛流砲術師範・朝河八太夫の門下で、開戦時には朝河隊に所属し、師と共に愛宕山に出陣したようだ。愛宕山からは供中口が一望でき、供中口の開戦と共に、砲撃を始めたのだが、その戦いぶりは上記の通りだ。
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 供中口が破れると、退いた兵を追って、敵兵が愛宕山に向かって来る。敵兵に向かって、銃弾を浴びせるが、敵の攻撃は激しく、八太夫が撤退を命じた直後、敵砲が破裂して、八太夫は瀕死の重傷を負う。幾弥も負傷するが、重傷の八太夫を背負い愛宕山の陣地を後にした。
  この後の話が、紙芝居の内容だ。

愛宕山については、根崎の道標に次のような説明を見つけた。
二本松愛宕山は、丹羽氏による町割り以前は、二本柳(現安達町)まで人家一つない広野であったので「大原」といった。その中心の山を大原山(現愛宕山)と称したという。明治35年から昭和16年まで大原遊郭として栄えた。
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by shingen1948 | 2007-06-25 21:40 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)