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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松少年隊と玉井村

二本松が落城し、その後、会津へ向かう道としての大玉村玉井については、先に母成峠を越えて会津の悲劇につながる通過点としての位置付けを中心に書いた。落城した二本松城を奪還しようとした動きと31人の墓、母成戦争ともう一つの母成戦争という視点だった。
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  玉泉寺が西軍の野戦病院だったことから、二本松落少年隊との直接的なかかわりが残っているという。
「大玉まるごと百選」によると、大玉村玉泉寺には、官軍先鋒の長州藩の吉村熊之助と二本松少年隊の久保彦治郎と豊三郎兄弟の墓があるとのことだ。戊辰戦争の時、野戦病院だった玉泉寺に運ばれ、傷つき死んでいった者たちの墓だ。
 大隣寺のホームページによると、二本松少年隊の「久保家の墓所は二本松台運寺にあるが、ここでそのまま葬られたものと見られる。」とのことだ。
a0087378_42331100.jpg  寺に行き、墓所にも行って、この地を治めていた大河内氏の墓は、確かめたが、戊辰戦争関係のこれらの墓はまだ確認できていない。

  二本松少年がここに運ばれてきた経緯は、以下のようだ。
 豊三郎12歳は、大壇口の戦いで負傷して城に向かって撤退したが、二本松の城は落ちる。それで、岳温泉方面へ敗走し、会津の丸山方で傷を癒していたが、庭坂村に藩士達が集結しているとの情報を得て二本松に向う。
  その途中で倒れて西軍の野戦病院になっていた玉泉寺に運ばれたが、11月には破傷風のために亡くなった。
また、兄鉄次郎15歳も戦傷で、ここに運ばれたが、互いに同じ所にいることを知らなかったという。鉄次郎も12月に亡くなったということのようだ。

庭坂村に藩士達が集結している時期のこの辺りの様子は、先の「山入り村の戦い~母成峠の戦い前夜」の記述と重なる。

西軍兵士の墓は、長州藩士吉村熊之助だけでなく、薩摩藩士の伊座敷全之進、薩摩藩次郎、土佐藩士の近藤楠馬のまだ20歳前後の若者4名の合祀墓らしいとのことだ。
by shingen1948 | 2007-06-24 04:30 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)