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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び、大壇口に戻って想う

 二本松においての戊辰戦争は、白虎隊に対比させるため、少年隊にスポットライトを当てて語られるので、その他のことは、陰に隠れてみえなくなっていることを差し引いて、自分の頭を整理する必要がある。

 大壇口も、木村銃太郎率いる少年隊が守り、ここが二本松の戦場としてはかなりの激戦であったということには、イメージのギャップがある。あちこちで、聞きかじったりしたことを継ぎ合わせて、実感のある想像ができるように組み立ててみる。

 この地は、丹羽右近隊3小隊が守るのだが、最新の砲術技能を持つ木村銃太郎に、人手が足りない分は、少年たちを手伝わせることで、砲撃の力を高めることができると考えたのではないか。少年の隊員22名を木村銃太郎につけて、一隊を編成し、4小隊合わせて100名が決死の覚悟でこの地を守っていた。
 更に、ここが二本松藩の奥羽街道の要所であり、この地を囲んで守備地を設けて配備し、最後の砦となるように配置しているのではないか。西軍は、ここにたどり着くまでに、他の守備地を突破してこなくてはならない。そして、ここを破ることが、二本松藩崩壊につながるとの思いがある。
 突破されてしまった二本松藩の守備地から敗走してきた者は、この地をめざす。また、城側からも、この地に駆けつけた援軍とともに、この地を死守しようとする想いがあって、この地が最後の激戦地になったのではないか。
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 更に、本当の古戦場は、二勇士の碑の建つ高台の向かい側の高台で、木村隊は、バイパスの橋桁の下に見える旧奥羽街道に正対して、この高台に陣をはり、攻撃を行ったと説明もみる。旧奥羽街道と思う道路から、西軍の視点でその方向を見ながら想像する。

 午前7時ごろに二本松の北東にある供中口で戦闘がはじまった。奥羽街道では、ここから数百メートル先の尼子台に、板垣が率いる軍勢が攻撃をはじめた。板垣隊だけては突破できないので、本宮の臼砲隊が応援する。先鋒が尼子台の小川隊を引き付ける間に、本隊が東端から大壇口を包囲した。
 そして、……。
by shingen1948 | 2007-06-23 09:04 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)