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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二階堂衛守と岡山篤次郎戦死の地

a0087378_4273339.jpg 大隣寺は、二本松藩丹羽公の菩提寺だが、この門前が、副隊長の二階堂衛守と少年隊の岡山篤次郎戦死の地ということだ。大壇口から隊長の銃太郎の首を下げてきた2人は、ここまで来たところで狙撃され戦死したとのことだ。二階堂は33歳、篤次郎は13歳だったという。



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  二本松青年会議所の紙芝居では、次のように語られる。
 木村先生は、「ここはもうだめだから城へ戻れ。私はもう助からないから首を斬ってくれ。」と言って、副隊長に自分の首を斬らせました。
 子供達は、泣きながら木村先生の体を土に埋め、斬った首を持ってお城へ向かって歩き出しました。お城へ向かう途中、大隣寺というお寺のそばまで来た時、西軍の兵隊に見つかり、鉄砲で撃たれてしまいました。この時、岡山 篤次郎という、鉄砲撃ちがとても上手な少年も大怪我をして倒れてしまいました。西軍の隊長は、篤次郎がまだ小さい子供だと知って可哀想に思い、病院に運んで怪我の手当てしましたが、「鉄砲を持って来い」 「鉄砲の玉はどこだ」と、うわごとを言いながら、やがて死んでしまいました。これを見た西軍の兵隊達は可哀想に思い、涙を流して泣いたそうです。

 衛守は即死、篤次郎は瀕死の重傷を負って、敵の土佐藩士によって野戦病院になっていた称念寺に運ばれたという。西軍隊長・土佐藩士の広田弘道が、介護にあたったという。このエピソードは、広田が少年に対して反感状を送って、それが碑になって残されたとのことだ。
by shingen1948 | 2007-06-22 04:30 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)