地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

成田才次郎の戦死の地碑

a0087378_4112342.jpg 戒石銘碑前の道路を進み、少年隊群像の前を通ってカーブになっているところに、成田才次郎の戦死の地碑が建っていた。最初に、この碑をみたときには、二本松少年隊についての物語は知らなかった。大壇口古戦場を訪ねて、その古戦場から撤退した少年の一人であることが、最近分かった。

 二本松青年会議所の紙芝居の説明では、以下のようになる。
 他の少年隊の子供達も、お城の方へ次々と逃げてきました。その中の一人、成田才次郎が傷だらけになってお城の門の前までやって来ると、向こうから隊長を先頭に西軍の兵隊が列になって歩いて来ました。西軍の兵隊は、ふらふらと歩いて来る才次郎を可哀想に思い、道をあけてやりましたが、西軍の隊長に近づいた時、才次郎は最後の力をふりしぼって隊長を刺しました。兵隊はびっくりして鉄砲で殴ろうとしましたが、刺された隊長が兵隊に向かって、「勇ましい少年だ、殺してはいけない。」と言って殴るのを止めさせて、自分はそのまま死んでしまい、才次郎もまた最後の力を使ったためか、その場で死んでしまいました。

 この紙芝居は、少年隊を見詰める視点から書かれているが、長州の隊長の人間性を想像する立場から以下のように記述しているものもある。

 長州の隊長の白井は、突っ込んでくるのが子どもであると瞬時に見抜いて、手をだすなと、護衛の兵を下がらせた。殺さずに生捕りにするつもりだった。しかし、才次郎の剣は、鋭かった。この隊長の脇の下から胸部を見事に突き刺していて、隊長は、落馬する。
 長州兵たちは慌てて才次郎を捕えようとしたが、刀を振り回す才次郎に近づけず、やむを得ず鉄砲で少年の息の根を止めた。

 現在、この白井小四郎の墓は真行寺にあるという。明治3年に長州藩から香華料が納められたとのことだが、地元では、少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの長州の将を讃える気持ちから、今でも墓前の香華が絶えないという。

  二本松少年隊は、集団として訓練された隊ではなく、一度に同じ運命を辿るのでもないので、こういったエピソードをつなぎ合わせて理解していく物語のようだ。




 大壇口の戦いについては、野津道貫という方が、明治31年に回顧談で語ることで明らかになったらしい。『近世国民史』というらしい。いつか、確認したい。
 その回顧談で、二勇士は、「これは敵ながら天晴れな勇士で、敵側には第一の殊勲者と言わねばならぬ」と評価されているようだ。
 大壇口の戦いは、次のような評価らしい。
 兵数不詳の敵兵は、砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが、
敵は地物を利用して、おまけに射撃はすこぶる正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。
我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退
することを得たが、恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう。
by shingen1948 | 2007-06-21 04:14 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)