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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大壇口古戦場を訪ねる

a0087378_21292557.jpg 戊辰戦争「山入村の戦い」へと続く二本松の戦いを確認することにして、大壇口古戦場を訪ねた。

 現地には、大壇口古戦場の案内板と二勇士の案内板があった。それに導かれていくと、JAの倉庫の脇の小高い丘にたどり着く。



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 その階段を登ると、「二勇士の碑」と「木村銃太郎の戦死の地」の碑がある。もう一段高いところは、広場になっている。眼下は、JRの線路が山沿いに走っている。


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 ここからは旧奥州街道がよく見渡せる。未明に本宮を出発した西軍が北進してくるのを迎え撃つ情景が思い浮かぶ。

 板垣退助の率いる支隊が、棚倉・三春を攻略して、本宮を占領した時には、二本松藩の本隊は、白河城攻防戦に出動していた。城には戦力になる者は出払い、しかも本隊は帰路を遮断されたのだ。それで、少年たちに大壇口の守備の出陣が命じられた。

 少年達に出陣の許可が出たのは、霞ヶ城の落城のわずか2日前であったという。
 少年達に、隊長といわれた木村銃太郎は、「幼年兵世話係」という22歳の若者だったという。彼は、江戸で約4年間西洋流砲術を学んで、慶応3年暮れに帰藩して、父の砲術道場で藩士の子弟の指導に当たっていた。その門弟のうち、22名の少年達を率いて、大壇口に出陣したのだ。

 ここでの戦いは、どうみても二本松藩に勝算はない。次々と犠牲者が出て、銃太郎が退却を決意したとき、左の二の腕を、敵の銃弾が襲ったという。退却の合図の太鼓を鳴らしたところで、第二弾が銃太郎の腰左側を貫通、腰は砕かれ、この傷では到底城に戻れぬと、副隊長・二階堂衛守に「我が首を斬れ」と命じた。衛守は何度もそれを拒んだが、やむを得ず、銃太郎の介錯をしたという。

 大隣寺のホームページによって大壇口の戦いについての概略を確認しておく。大隣寺は、二本松藩丹羽公の菩提寺として建てられ、戊辰戦争で勇敢に戦った二本松少年隊の墓所がある寺だ。

 明治元年5月、二本松藩の主力は、白河城攻防戦に出動していた。板垣退助の率いる支隊は、棚倉・三春を攻略して、早くも奥州街道に入り本宮を占領し、二本松本隊の帰路を遮断した。
 
 霞ヶ城に残るものは、老幼婦女子と藩主側に侍するわずかの老臣のみであった。
 二本松藩では、主力藩兵の不在による兵力を補うために十三、四歳の少年たちにまで特例として出陣を認めた。少年たちの多くは江戸留学から帰藩し西洋砲術を指南していた木村銃太郎の門下生であった。少年たちは、銃太郎に率いられて武士として出陣できる喜びに意気揚々と大壇口へと出陣して行った。

 7月29日、大壇口では敵の襲来必至の情報に緊張して警戒にあたっていた。未明に本宮を出発した西軍は、奥州街道を北進し、二本松軍の陣地に接触し攻撃を開始した。少年たちは古畳で胸壁を築き、銃や大砲で応戦した。少年たちが大壇口を死守しての激戦は二時間ばかりで破れ、隊長木村銃太郎は戦死、退却した少年たちも多くが傷つき、また命を落とした。

 藩主長国公はすでに米沢に向かって避難していて、城内に残る家老丹羽一学、大城代内藤四郎兵衛らはいよいよ最期と城中に火を放ち、討死あるいは自刃して果てた。




大壇口古戦場 二勇士の碑
a0087378_2138577.jpg ここが戊辰戦役に木村銃太郎を隊長とする二本松少年隊奮戦の地である。隊長はここで戦死、また、少年隊を援護して壮烈な戦死をとげた青山助之丞、山岡栄治の二勇士の奮戦の地でもある。
 慶応四(1868)年7月二十九日未明、三春藩の突然の降伏により、二本松の横腹゜を突く形となった西軍は、潮の如く二本松城下に押し寄せたが、血気盛んな壮年武士は各守備口に出陣しており、藩はやむなく少年隊の出陣を命じた。木村銃太郎の率いる少年隊は、十二三歳から十六七歳までの花も蕾の少年の一隊で、獅子奮迅の戦いは西軍をなやましたが、衆寡敵せず。維新の夜明けを前にして可憐な花を散らせたのであった。
 ここには少年隊と二勇士の碑があり、当時西軍の隊長野津道貫の歌
 うつ人も うたるる人もあわれなり
 ともにみくにの民とおもえば
 と、陸軍大将従二位木越安綱の歌碑
 色かへぬ 松間の桜散りぬとも
 香りは千代に残りけるかな
がある。
 大壇口に出陣した二本松少年隊は六十三名の内、二十二名で、戦死者は隊長木村銃太郎をはじめ十六名、戦傷者六名であり、戊辰戦史上特筆すべき一大決戦の地である。
二本松観光協会

by shingen1948 | 2007-06-18 21:39 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)