地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安達が原の「供中口(ぐちゅうぐち)古戦場」

  「奥の細道」で、芭蕉が黒塚に立ち寄ったことを確認するため、安達が原に降り立った。水害を防ぐため、高所部は整備されているのだが、低地部は、そのまま手付かずの状態を保っている。ここが、処刑場があったらしいとの話をきいたことがあるが、千人供養等なるものが、畠の中にあったりして、そんな雰囲気をかもし出している。
a0087378_4471995.jpg そんな中、「供中口の渡し」が想像出来たのは、「供中口(ぐちゅうぐち)古戦場」の案内板を見つけたことだった。ただ、この案内板も、水害を防ぐ堤防工事や、橋の高さを変える工事の場所に引っかかり、移動したり、整備し直したりしているようであった。




a0087378_448995.jpg 供中口古戦場というのは、二本松藩の戊辰戦争関連の古戦場である。自分の分類では、「会津への路(戊辰戦争)」にあたる。ここ二本松が落城し、板垣退助ひきいる西軍が会津へ向かうことになる。案内板には、以下のエピソードが記されている。
三浦権太夫義彰は、信念的には、勤王だが、東軍として西軍と戦わなければならない立場だった。それで、戦いを挑むのだが、相手に被害が及ばぬように鏃を抜いて弓を引き、農兵をさっさと退去させて、自分だけ自害した。
  注目すべきは、エピソードの後に、大正八年五月十七日、正五位を贈られるとあるところだ。大正の時代になっても、政府は、戊辰の戦いで、刃向かわなかったことを理由に勲章を与えているのだ。逆の見方をすれば、見せしめで会津への仕打ちがあったという言い伝えは真実味を帯びてくるということでもある。

説明板には、以下のように記されている。
 供中口(ぐちゅうぐち)古戦場
ここは、戊辰戦役の供中口古戦場であり、また、二本松藩の農兵指令士三浦権太夫義彰戦死の地である。
義彰は戊辰戦役に老兵、農兵それに少年隊の一部を率いて阿武隈川をはさんで対陣したが、もとより王政復古を念じる義彰は、弓矢の鏃を取り捨て狩衣姿で出陣した。
西軍ではこの矢を見て、東軍にも「勤王の士」がいることがわかった。勝敗の帰結は早かった。義彰は見方の農兵達を退去させ、「あす散るも色は変わらじ山桜」と辞世の一句を残して、独り壮烈な自刃をとげたのである。
霊は安達ヶ原観世寺に眠り、のち大正八年五月十七日、正五位を贈られている。




  安達ヶ原観世寺の墓の前には、以下の説明板が掲げられている。
勤王の士
三浦義彰之墓

 旧二本松藩士 文武の道に達す 勤王(尊王)の志篤く 戊辰戦役となり 藩命により農兵を率い 阿武隈川の西岸供中の渡に出陣した もとより西軍に抗する意志無しも藩命黙し難く 死を持って之に酬いんのみと 弓矢の箭鏃(矢じり)を除き出陣いたした 西軍流れをなし攻め来る 義彰 兵を去らしめ一人丘に上り自刃す
辞世の句
「あす散るも色は変わらず山桜」
大正八年 正五位を追贈された

昭和六十三年十月
二本松観光協会
安達ヶ原顕彰会

by shingen1948 | 2007-06-07 04:55 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)