地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

玉井城はどこか

 玉井を治めていた大河内氏が生活していたのは、字舘の地であろうと想像した。菩提寺は玉泉寺であることは明らかであるし、その寺の墓地には、氏の墓があることも確認できた。

  どうでもよいとも思うのだが、玉井城の位置がどこかということが、気になっていた。
  白石氏が人取り橋に向かうことを想像するのにも、出発点が分かれば、どこを通って戦場にたどり着いたかが具体的な姿として想像しやすく楽しくなるからだ。

  地区の方に、訊ねて確認しようと思っていたら、偶然、住所の記述を見つけた。
  「山形・宮城・福島の城郭」のその他の城郭一覧に玉井城が載っていた。
a0087378_4425693.jpg
 玉ノ井城 安達郡大玉村玉井字中通 天文年間 大河内日向守光盛の居城

  根拠はわからないが、その地を地図で確認すると、二本松から抜けてきた道路が、名倉山に突き当たり、そこをカーブして会津街道に抜けるところだった。詳しくは散策してみたいが、とりあえずは、 今まで確認した玉井城の記述を、玉井城の位置を頭に置いて確認してみる。

 ○ 天文16年(1546)2月、三春の田村隆顕は二本松の畠山義氏・石橋尚義とともに安積郡に侵攻して十ヶ城を落とし、玉井城(安積郡大玉村)を自落させた。
 ○ 天正13(1585)年の「粟之巣の変事」に始まる「人取り橋合戦」で、政宗は玉井城の背にそびえる大名倉山と、本宮城から瀬戸川館に至る阿武隈川高倉山の作る杉田へ抜ける道を防ぐ位置を伊達軍の防衛線とした。
 ○ この布陣を以下のようにした。
 前田沢を見下ろす高倉城に富沢近江・桑折摂津・伊東肥前に鉄砲300挺を添えて先駆隊とした。本宮城へは瀬上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衛を、そして、玉井城へ白石若狭を遣わした。玉井城へ遣わされた白石氏は、伊達の古い一族で、成実と並んで伊達軍の主戦力であり、兵力500で、玉井城に進撃したあと最前線に出て戦った。

  白石氏は、玉井城から、山沿いに進んで回り込み、会津街道に抜ける路を、最前線となる人取り橋まで進んだと想像が具体的に膨らむ。
by shingen1948 | 2007-06-04 04:57 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)