小浜と本宮(人取橋)の中間地点としての「岩角山」
2007年 05月 24日
ここは、二本松から三春に抜ける街道の途中であり、山を挟んで向かい側には二本松から白沢に向かう街道が通っている。どちらの街道もよく通るが、特に意識して立ち止まることは無かった。
立ち寄ってみようと思ったのは、「人取橋の戦い」との関連だ。

寺の脇に説明板が立っているので確めてみるが、寺の由緒と、巨岩がつくる景色のよさから、県の名勝天然記念物に指定されていることなどが説明されているだけで、伊達政宗の関連での説明はない。
歴史的なことについては、二本松城主丹波光重公が、岩角山や寺をが荒れていたのを再興したことが記されているだけだ。
「山形・宮城・福島の城郭」では、「天正年間末、本宮人取橋合戦頃の伊達政宗の本陣」と紹介されている。

山岡宗八の「伊達政宗(一)」朝明けの巻の中では、伊達政宗が小浜城から人取り橋の戦いに向かう場面で、角岩の地を以下のように描いている。
伊達政宗が、小浜を出て岩角の砦に入り、ここへまず八千の兵を集めて、それぞれの地境の要所要所へ守備に着かせたのは十一月十五日であった。
この後は、先の人取り橋を訪れた時に書いた布陣にするように指揮したと描かれている。
また、人取り橋からの撤収については、伊達政宗の心理を以下のように描いている。
本宮から岩角まで当然敵の逆襲を予期して固めさせてあった……。
政宗の意識としては、岩角から小浜までは、安心できる領地ということのようだ。他と戦う時の最前線の本拠地としてこの地があり、ここで人取橋の戦いの布陣を敷く指揮をとったということのようだ。
各大将が、各所からここに集められ掛け散じた。そして、ここから伊達政宗の布陣の計画によってそれぞれの配備に向かったのだろう。伊達政宗の本陣も、それそれの配備に着く状況を判断しながら本宮に向かって進んだのだろうか。
角岩の地をそんなふうに想像してみた。