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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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田地ケ岡館について

 栗の巣古戦場跡には、栗の巣古戦場の説明と、畠山氏の墓が中心に祭られている。一緒に亡くなったはずの輝宗については触れていない。二本松市関係者の意識が反映している。

 この畠山氏の最初の居城といわれているのは「田地ケ岡館」だが、確証はないという記述をみつけた。
 先に田地ケ岡館跡地に訪れたときには、言い伝え等を元にして畠山氏の最初の居城とした。
 しかし、「山形・宮城・福島の城郭」によると、高国を奥州探題に任じ、この地に居を構えさせ、国詮まで続き、その後攻防の便を考慮して白旗ケ峰(現在の霞ケ城公園の頂上)に城を築いたとされるが、その確証はないとのことである。また、攻防には不適当な館であったと考えられるとのことでもある。
a0087378_49076.jpg  その記述を頭に置いて、もう一度そこに立ってみようと訪れてみたら、小学校の運動会だったので、直ぐに退散した。

 言い伝えの論拠となっているのは、次の二つの記述によるとのことである。

○ 里老伝に安達太良殿申人の住せし由を云ふ、されども、慥(たし)かなる義なし、案ずるに二本松岳を万葉集に安達太良山と書たり、昔好事の者有て、安達太良と文字をかへ て姓名として云ふなるべし(積達古館弁)
○ 安達太郎が事古館弁説の如くなるべし、霜台翁の説は高国より国詮まで三代の居住とす(相生集)
 
 同誌によると、この館は安達太良山矢筈森付近に源を発する湯川の南岸、独立丘陵の末端部で舌状台地を形成する標高280m東西400mの大地の中央から南部に営まれた館とのこと。地元史家の復元図によると少なくとも10ほどの郭で構成され、大部分に土塁を具備していたと思われるとのことだ。
 小学校公民館のあるところは、本丸跡で、北側を除いた三方に空掘りをめぐらしていたものと思われるとのこと。

 「おくのほそ道を歩く」の田口氏は、「黒塚の岩屋一見し‥‥‥」の項で、「亀谷」の説明の中で田地ケ岡館について以下のように触れている。
奥州征伐で功を挙げ安達を拝領した安達藤九郎盛長は、田地ケ岡に館を構えたが、南北朝時代の奥州探題畠山高国もここを居城とした。

 少なくとも、ここに「安達郡」という地域の呼び方に影響しそうな有力者が舘を構えたと想像できる。
by shingen1948 | 2007-05-23 04:09 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)