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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「人取り橋」の現地を確認して

 「人取り橋」の現地を確認したかったのは、個人的には三つの意味がある。

 その一は、玉井から白石500騎が出向いているという玉井の地域を確認していることとの関連であり、その二は、 茂庭氏を確認したいという思いだ。 

 更には、「会津への路」探索の興味である。
 「会津への路」としては、スポットライトがあたる機会が二回あった。
 その一つは、戊辰戦争の時で、政府軍が会津へ攻める一つの路であったことであり、その二が、伊達政宗が、この地で武将としてスタートし成長し、会津へ向かう路であったことである。
 「人取り橋」は、その伊達政宗が会津への路を具現できるかの試金石となった地だ。
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 この地を人取り橋と呼ぶのは、この瀬戸川周辺で伊達勢と連合軍が激戦となり、多数の死者が出たことに由来するという。戦死者:伊達勢426人、連合軍961人



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茂庭左月の碑の存在や、茂庭の地名とそこの橋が「もにわはし」であることも感じるものがある。

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 伊達政宗の布陣の概要
奥羽街道と会津街道の交わる要衝の地・本宮に布陣
観音堂山に本陣、本陣の前には亘理元宗・国分政重・留守政景・原田宗時・鬼庭良直らが主力部隊の4千を率いる。
伊達成実は1千余の兵を率いて、遊撃隊として瀬戸川館付近に布陣

連合軍の布陣の概要
兵を3隊に分けた陣立
○佐竹:伊達本陣の南にある高倉城へ、
○白川・石川・磐城・二階堂:中央正面、
○葦名:会津街道からの主力部隊



 ここには、「人取橋合戦」についてと、「功士壇」についての二つの説明板がある。

人取橋合戦

 天正13年(1585)11月17日、常陸の佐竹、会津の葦名、白川、石川、須賀川の二階堂、磐城、相馬の連合軍約3万と伊達政宗の軍勢7千余が戦った古戦場である。
 この年10月、政宗、二本松城を攻め風雪の為兵を引く。畠山の急を聞いた葦名、佐竹は政宗に仙道(中通り)を奪われんことをおそれ仙道、磐城、相馬の援軍と須賀川に会して安積を攻略し、前田沢南の原に陣をとる。
 これを知った政宗は、小浜より岩角に出て高倉城に援軍を送り、本宮、玉井に兵を配して、後方に備え伊達成実を高倉街道小山(桝形)の下に置き、自らは本宮観音堂(日輪寺山)を本陣とし、青田原に軍勢を配して高倉に備える。
 合戦は、高倉より始まる。荒井を経て伊達の本陣をめざす佐竹勢と人取橋(現会津街道名倉橋東)を挟んだ戦いはしれつをきわめ、乱戦中鬼庭(のち茂庭)佐竹が討死。伊達の本陣はもとより、成実の陣も激戦となり、舟橋(山田橋西方)辺では、伊場野遠江が討死、日没して双方兵を引く。
 その夜、佐竹の軍師が家僕に刺殺され、優勢の連合軍は本宮を抜くことなく兵を返し、戦いは伊達方の有利に終わる。
 政宗は、天正17年(1589)、葦名氏を追い仙道を手中に収めることとなるが、この間で最大の激戦であった。
平成11年8月
本宮市教育委員会

功士壇
 この付近一帯は、人取橋合戦の古戦場で、天正13年(1585)11月17日に、二本松の急を聞いた佐竹、葦名勢を主力とする7将連合軍約3万と、伊達勢との決戦場となったところです。このとき伊達の将、茂庭左月(73歳)が手勢を率いて荒井あたりに進んだところ、連合軍のために人取橋あたりまで押しもどされながら、味方の後盾となって手兵を縦横に駆使して奮戦し、乱戦の中で討死にしました。
 この戦いで伊達方の死傷者は 420余名にのぼり、これらの戦死者がここに合葬されています。
 茂庭左月の碑は、文政11年(1828)子孫によって建てられました。
平成3年3月
本宮市教育委員会
by shingen1948 | 2007-05-19 07:56 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)