地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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奥の細道寄り道:平田舘と高石仏供養搭群付近

「奥の細道」をたどるため、「星の宮」から瀬の上方面に足を伸ばしてみる。河岸段丘の縁を歩いてみると、今は桃畑の中の作業道になっている。
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このあたりで、特徴的なのは石塔群である。特に、平田館跡の北側にある高石仏供養搭群には圧倒される。大きな厚い板状の石塔には「南無阿弥陀仏」と名号が彫られている。傍らの小さな板碑は鎌倉時代のものとのこと。
平野の伝承とくらしによると、以下のような言い伝えがあるとのことだ。
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「信夫庄司の佐藤基治が舘の山に大鳥城を構えていたが、平田館には、佐藤一族の平田五郎胤清が居を構えていた。佐藤一族は源義経につかえていて、源頼朝が源義経討伐の時、大鳥城の佐藤一族は、鎌倉軍を迎え撃ったが大敗し、一族は散り散りになり、佐藤基治も死亡した。その大鳥城を攻め落とした時、平田舘は一番先にせめらて焼かれた。この石塔はその供養ではないかとのこと。」

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香積寺に移動した石塔の元々のあり場所も、住所をたよりに探してみると、この作業道のどこからしいことが分かる。

芭蕉はこの佐藤氏との関わりある大きな石塔群を通って、星の宮までたどり着き、五郎兵衛館を通り、医王寺に着く。そこで、医王寺の佐藤一族の石塔群を目にしたことになる。

「奥の細道」の記述と実際の行程について矛盾があるが、この佐藤一族とかかわりの深い石塔群を観ていたことを重視して考察すると、これらの混乱は受け入れやすいと感じる。
by shingen1948 | 2007-05-09 23:17 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)