地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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医王寺と奥の細道

「平野の伝承とくらし」によると、福島から飯坂までの「奥の細道のコース」は以下の通り。

 福島→岡部渡し→山口(信夫文知摺)→月の輪の渡し場→瀬上→上高梨→平田→鯖野(医王寺)→丸山(舘の山・大鳥城跡)→飯坂温泉

このときの「奥の細道」の文の現代の文に直すと次の通り。
 月の輪の渡しを越えて、瀬上という宿場町に出ました。佐藤庄治の旧跡は、左の山際1里半ばかりのところにあります。
 そこには飯塚の里、鯖野と聞いていたので、道を訪ね訪ね行くと、丸山の跡などがあり、地元の人の話すことを聞いて涙を流しました。
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 また、直ぐそばの古寺には、佐藤庄治一族の石碑が残っていました。中でも二人の嫁(継信・忠信の妻)のしるしはあわれな話です。女ではあるが、かいがいしいふるまいにまた涙を流しました。
 寺に入ってお茶を飲むとここに義経の太刀・弁慶の背負った笈があり、寺の宝としています。
 笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)

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この医王寺に祭られている佐藤忠信・継信兄弟は、奥州の藤原秀衡が、義経につけた武者であるとの知識は持ち合わせていた。しかし、継信が、現在も香川県内で忠義を尽くす英雄としてまつられていることを知ったのは、最近である。

 平成15年「毎日新聞」日曜版によって、司馬氏の描く源平合戦の印象深い従者として、佐藤継信が描かれていることを知った。屋島の戦いで義経の身代わりとして敵の矢を受けて死んだことに対する評価である。
 更には、この記事で香川県内の継信の評価の高さが伝えられていた。継信の墓は二つあり、一つの墓は、牟礼町に義経によって葬られたと伝えられる場所があり、近くには、継信の遺体を本堂の扉に載せて運んだことで有名な寺もあるとの事だった。
 もう一つの墓は1643年に高松市内に高松藩主が、封建時代の道徳の手本として新しく建てたものだそうだ。
 
今回、この記事とのかかわりありそうな記事を探してみた。「源平古戦場 義経、讃岐を駆ける」という編集:高松大学・高松短期大学生涯学習教育センターのサイトを見つけた。 この中の「源平古戦場35景」の16景射落畑(木田郡牟礼町)から20景菊王丸の墓(高松市屋島東町)までが、佐藤継信関係の写真説明であった。

16 平能登守教経の強弓に倒れた佐藤継信。その現場だとされている。当時はこの庵治街道脇まで海であった。
17 元暦2年2月18日(19日とも)屋島檀の浦で源平両軍の激突となり、平教経の強弓に源氏の佐藤継信が討たれる。義経の身代わりとなって死んだ彼の遺体を州崎寺の戸板で運んだという。

18 高松市と牟礼町の境界にこんもり茂った森がある。讃岐国造の始祖神櫛王の墓だという。ここに継信の墓と義経の愛馬太夫黒の墓も並んでいる。

19 寛永時代に高松藩主になった松平頼重が建立した。主君のために犠牲になった若武者の忠死を称えてのものといわれる。

20 平氏の能登守教経の強弓に源氏の大将義経の身代わりとして倒れた佐藤継信の首を取ろうと走り出した菊王丸を継信の弟忠信が射抜く。18歳での一期だった。
by shingen1948 | 2007-05-08 21:06 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)